臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(25)

 1883~1890年には36万7000人の百姓が税金の滞納で、土地を没収された。
 1884~1886年には生産可能な農地の7分の1が抵当としてとりあげられた。
 金持ち地主は競売により没収された土地を買占め、その地所を区画に分け、むかしの借地のような形で農産物を栽培させた。1883~1908年まで農産地の借地の率は37%から45%に上がった。しかし、借地人は最悪な状況で農業だけでは生きていけなくなった。農村の苦境はますますひどくなり、百姓一揆が勃発した。
 また、農村から町へ移るうごきが顕著になった。1888年、東京、横浜、大阪、名古屋、京都、神戸などの都市は全国民の6%をしめていたが、1918年には11%に上昇した。都市の人口が増えただけではない。この期間の全国の人口も4000万から6000万に増えたのだ。政府は人口の急激な増加からくる社会情勢の悪化を抑えるために移住政策をうちだした。
 1883年、政府はまずオーストラリアへの移住をはじめた。真珠貝を採取するために37人の労働者がさし向けられた。そのうちにデカセギ者の送り込まれる国も増えていった。政府の移民対策のなかには人口過剰の緩和、移民の自国への送金、日本製品の新市場開拓、国外での労働訓練、他国の現状の把握などがおりこまれていた。
 しかし、1868年になると、自発的に太平洋の群島のひとつであるハワイに向う日本人が現れた。サトウキビとパイナップル栽培に従事するためだった。政府がそれを奨励するようになると、移民の数が急増した。1885~1894年の間に、3万人の日本人がハワイに移住した。最初の沖縄移民の出発は1899年12月5日で、1900年1月8日にホノルルで下船した。すでに多数の日本人が住んでいたので、その地に違和感を持つこともなかった。また生まれ故郷と同じサトウキビが栽培されていて、仕事に関しても驚くようなことはなかった。
 1903年、沖縄人はラテン・アメリカの国に移住しはじめた、まずメキシコへ。そして、ペルーとボリビアに渡った。1907年には約1万の沖縄人が外国で生活していた。そのなかにはオーストラリアの西にあるニューカレドニアやペルーもふくまれている。いずれ、彼らがブラジルに向かってくるのはもう時間の問題だった。

 1895年に日伯友好協定が結ばれ二国間の外交は復旧していた。ブラジル、とくにサンパウロ州は何年か前の奴隷解放により、奴隷に代わるコーヒー園での人手を必要としていた。ブラジル政府は友好協定のあと、何度も日本移民を導入しようと試みていた。1905年のイタリア移民が廃止されると、コーヒー園の人手不足に拍車がかかり、移民導入は喫緊の問題だった。
 そこに登場したのが杉村濬(ふかし)日本全権大使だった。オーストラリア、北米、カナダ、太平洋の島から次々うちだされる移民制限。杉村はサンパウロのコーヒー園の状況についての記録のなかで、
「わが国の移民はサンパウロ州において、まれに見る幸と楽天にいきあたることであろう」と書いている。
 1906年と1907年の北米の移民禁止の前後には20人以上の日本人がいろいろな目的でヨーロッパ経由などでブラジルへ流れてきているし、同時にブラジルへの日本移民導入の気運が高まっていた。