臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(28)

 興味深いことに、外交面で日本は30年間の二つの戦争に勝ったことで、他の強国と肩を並べるようになった。1914年8月3日にドイツがロシアとフランスに、そして、翌日、英国がドイツに宣戦布告したいわゆる第一次世界大戦に乗じて、日本はドイツにアジアの海洋から戦艦の退去を要求した。それを拒否された数日後、ドイツとの戦闘を決定した。
 9月2日、日本軍は中国の山東省を上陸、以前中国に進出する根拠地となった青島まで隊を進めた。戦争終結にあたり、日本は勝った連合軍に連なりヴェルサイユでの調停に参列、五強国の一国として平和条約作成に加わった。世界の政治において、新しい地位が国際的に認められることになった。
 また、そのとき設立された国際連盟にも加入した。これらの出来事は国中の愛国心を鼓舞し、推進する理由になった。
 1914年から18年までの戦争で、短期間ではあったが国内情勢が上向いたものの、ずっと以前からつづいている危機が収まるわけはなく、すぐに不況の波がまたやってきた。国は矛盾した状態にあった。たしかに、明治時代初期の産業改革により、大多数の国民は物資的に恵まれるようになった。
 しかし、拍車のかかったインフレで一部の国民の貧困化がますますひどくなった。1917年から18年の間に、卸価格は30%上がり、1918年から19年の間に、さらに22%上昇した。とくに米の価格の値上がりはいちじるしかった。

 正輝がサントス港に着いてから三週間たらずの1918年8月4日、富山県で「米騒動」とよばれる暴動が起きていた。略奪や暴動はたちまち京都、大阪、神戸方面に広がり、群集は米屋、とくに、投機的に売買する米商人を襲い、火をつけたりした。さらなる悪化を懸念する声も高まり、社会的危機感はますます拡大していった。
 まるで、沖縄が何回も、何回も受けた「ソテツ地獄」の苦しみを、こんどは全日本人が受けているようなものだった。そして、1923年の関東大震災による東京と横浜の壊滅は、日本の経済、社会情勢を悲壮な状況におい詰めた。
 この時期、日本政府が移住の奨励に力をいれたのは別に不思議ではない。むろん、ブラジル側の移民受け入れ規制に変化があったにせよ、自国で生き残る手段がなく、海外で生き延びるほかない日本人にとって、ブラジルこそ時期にかなった移住国といえた。

 家族が別れ別れになるという悲劇を迎えた保久原家ではあるが、当時の状況からして、子どもの正輝はそれに素直に従った。当然のことだと考えていた。日本人と沖縄人の間には習慣的、文化的、肉体的な差はあったが、保久原家では日本人と同じ価値観をもっていることもあり、たがいに親近感をもっていた。
 正輝は家でも学校でも権限や階級を重んじる原則の大切さ、家族の尊厳を守るために家名を汚さないようにつとめる、目的達成のための努力、忍耐、つつましさ、不運や逆境をのり越える強靭さについて年中聞かされていた。
 新城の日常生活のなかにそれが反映されていた。父母や兄たちに対する敬意は習慣として正輝に蓄積されていた。彼ら言葉は忠告よりは命令にひとしく、食卓につく場所、食する順序がはっきり決められていた。上下の差によって、挨拶や話し方が違った。(目下の者が目上の者と話すとき、弟が兄と話すとき、息子が父と話すときには敬意と服従をしめす言い方があった)