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臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(31)

 1912年、リオの公使館の通訳から通達を受けた日本政府も沖縄からの移民を禁止した。少しのちに政府はこれを見直し、ある条件のもとに、沖縄県からの移住を許可した。小学校を終了していること、40歳未満であること、標準語を話すこと(沖縄方言は他の日本人が解せなかった)、結婚生活を三年以上経ていること、家族に養子を加えないこと、女性は入れ墨をしていないこと、などがその条件だった。正輝の家族は条件の一部をみたしたが、すべての条件に適っていたわけではない。
 日本人、特に、沖縄人に対する評価が不安定な状態のときに、正輝はサントスからの終着地モオカ地区にある移民収容所に到着したのだった。

第3章 発見

 正輝はすべてに感動した。
 汽車が止まると、正輝は何ひとつ見落としまいと、せわしく左右をみわたした。すべてが目新しい。すべてがまるで、自分たちを迎えているようだった。
 サントスからくる移民のために特別に私設駅が設けられていた。長いホームをほんの少しの荷物を抱えた人々が、中央の出入口に列をつくって歩いた。正輝は叔父たちと列に加わった。
 移民収容所まではそう長い距離ではなかった。荘重な建物の入り口は5メートルほどの高さの塔で、まんなか、そして左右のアーチ型の入り口が一体となり、それを合わせると正面10メートルほどの幅があった。移民たちは驚嘆しながらきちんと列になって通路を通りぬけ、庭園の間を20~30メートルほど歩いて移民収容所の建物に入っていった。
 正輝は入り口の塔に圧倒されたのだが、今度はこの建物の方がよっぽどすばらしいと思った。移民収容所は1881年にサンパウロ州政府がモオカ区の一ブロックを買いとり、1886年と翌87年にかけて建造されたもので、入り口はヴィスコンテ・デ・パルナイーバ街に面している。ボン・レチーロの前収容所は駅から遠かったので、こちらに移転したということだ。
 なにごとも手際よく運ばれ、汽車がサントスを出たとき、移民監督局は電報で出発時間、移民の人数、到着時間を知らせてあった。収容所はすぐに移民たちの受け入れと、宿泊そして食事の準備にとりかかっていたのだ。
 健康に問題のある移民たちには医者が召集されたし、所内を案内する責任者には「収容所の現行の規則にそって任務に当たること」という注意が与えられた。それは1908年度の書類には書き残されているので、今日でも知ることができる。
 この書類には、また、鉄道関係についての説明も記されている。「サントス港からきた移民たちの下車は、サンパウロ鉄道に付属する移民収容所専用のプラットホーム内でなされる。その際、移民たちといっしょに荷物もおろされる」というものだ。
 正輝は的確な指示や受入れ体制が整っていることや、何といっても、堂々とした収容所の建物を目のあたりにして、出発際にいわれた「一攫千金がかなうかもしれないが、まだ貧しく文化レベルの低い何のとりえもない国だ」ということばを思い出しながら疑問を抱いた。
「そんな後進国がこのような建造物をつくれるはずがない」と思ったのだ。
 外観をみて驚いたのだが、建物のなかを歩いていくうちに、今度はその大きさに呆気にとられてしまった。自分たちが小人になったように感じられる。入口ホールに入ると広々とした空間に、様々なスペースがあった。

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