臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(33)

 コーヒーは神戸で飲んだことがある。自分たちはこのコーヒーを収穫するためにブラジルにいくのではないか?と考えはするが好きにはなれなかった。収容所ではコーヒーが喉を通りやすいように砂糖をたくさん入れて甘くした。
「いったい、この飲み物を、他の人たちはどう思っているのだろう?」と疑問に思ったほどだ。
 そのあと、移民たちはそれぞれの寝室をあてがわれた。風通しのよい大部屋で、家族用と独身者用に分かれていた。
 正輝が当時、部屋に設置されたばかりの「便利で清潔で寝心地よさそうに、針金で組まれた鉄製のベッド」と表現したベッドが並んでいた。
「ああ、これで西洋の人は寝るのか」〝カーマ(ベッド)〟、かんたんな言葉だと発音してみた。アクセントのある音が彼が知っている日本語と沖縄語の共通の長音になった。
「あ」がこれまでと同じ、口を大きく開けた「あ」で発音した。だから、「カーマ」となった。もう一度ポルトガル語を聞いてみると、自分の発音が変に思えた。鼻にかかった「あ」なので、自分には発音できないと思った。実際そのときばかりでなく、その後も一度も発音できなかったしろものものだ。
 それからベッドは自分の体重に耐えられるか、どのぐらい硬いか試しに腰かけてみた。頑丈にみえるが柔らかだった。そこで、横になった。はじめは落ちる危険がないか、足を外に出し、つづいて足を上げ、体重をかけて乗ってみた。最終テストをするため、ベッドの横に立ち、飛び上がって乗った。しばらくそのままにしていた。
「こんなに気持ちがいいのに、どうして、沖縄では床なんかに寝るのだろう?」
 下船まえの若狭丸ですでにサントスに好印象を抱いていたが、こうして収容所に入っていろいろ発見してみると先行きよいように思われた。この地ですばらしい生き方ができると確信した…。
 1階に2室、地階に6室、あわせて8室の大部屋にそれぞれ手洗いとトイレがついていた。ふつう、150人がひと部屋に寝起きした。若狭丸の乗客のようにその数が多少増えても、べつに問題はなかった。一度に6000人もここに泊めたことあるというが、しかし、正輝が宿泊したころにはそういうこともなくなっていた。
 翌朝、昨日とおなじパンがまた出された。そのあと食堂から廊下に並ぶドアのひとつに列になって向かった。そこで、みんな、医師の短い質問に答え、おざなりの検診を受け、収容所の医師か保健士から予防注射を受ける。つづいてみんなが受付ホールに集まってくると、乗客リストを手にした係員によって移民の名が読みあげられた。ひとりずつ当人かどうか確認され、その氏名とデータが台帳に書きこまれた。
 彼らを受けつけた職員は親切だった。当時の標準的な書き方というのは装飾された綺麗な文字で、将来、だれかがこれを読んだら、まちがえそうな字体だった。とくに、外国人の名前はそうなる。小文字の“r”が“n”とまちがえられたり、“t”に横線がはっきりなかったら“l”と読まれてしまう。
“k”は“h”とまちがえられやすい。けれどもページは凝った装飾体で埋められていた。名前、出生地、生年月日、家族状況、同行者名、職業、入国日(横には出国日の欄)、渡航につかった交通機関、船名、契約した業者名、行き先、つまり、宿泊所に着いた移民の大切な情報がすべて書きこまれていくのだ。