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羅府新報=アメリカ本土日本移民入植150周年=夢と希望胸にカリフォルニアへ=(2)

ヘンリー・シュネル(右端)と移民団のメンバー(名前不明)(ARC提供写真)

ヘンリー・シュネル(右端)と移民団のメンバー(名前不明)(ARC提供写真)

日本人一行は「自由人」
威厳に満ち、地元紙も歓迎

 こうして移民団の先発隊がサンフランシスコ港に到着したのは1869年(明治2年)5月20日。その模様は、同年5月27日付の当時のサンフランシスコの地元紙「デイリー・アルタ・カリフォルニア」やサクラメント近郊の地元紙「メリーズビル・デイリー・アピール」の紙面でも報じられている。
 記事によると、日本北部に10年住んでいたプロイセン人のヘンリー・シュネル率いる日本人3家族がサンフランシスコ港に到着し、これから茶と絹の生産を始める計画であることが記されている。そして米国一の絹を生産するため、日本から桑の木5万本をはじめ、600万粒の茶の木の種、植物ろうの木500本、竹などを持ち込み、まもなくほかの家族も到着する予定だと書かれている。
 興味深いのは記者の目に写った日本人一行の印象が記事の中でつづられていることだ。
 恐らくこの記事を書いた記者にとって人生で初めて日本人と対面した瞬間だったことだろう。記事では日本人一行は「農奴ではなく自由人」とあり、「大変教養があり洗練された紳士たちで、その家族も高貴である」と褒めたたえている。
 また「一行はアメリカの法律を完璧に理解し、それに従うだろう」とし、「米国の資源を発展させるための技術と産業を持ち込んでくれた」と書かれている。
 当時はゴールドラッシュの波にのり、中国から大量の移民が押し寄せ、労働力競争から彼らに対する差別があったような時代。そんな中、地元紙は一行を威厳に満ちた人々であると紹介し、到着を歓迎していたのである。

妻は日本人女性、和名も
シュネルとは一体何者?

 移民団を率いたシュネルとは一体何者だったのだろうか。記事ではシュネルは日本語を流暢に話すプロイセン人と書かれている。
 シュネルがいつ日本にやってきたのか正確な時期は不明だが、プロイセン領事館の翻訳書記官を務めた後、ヨーロッパの武器を販売する武器商人となった。会津藩主の松平容保はシュネルの顧客の1人で、軍事顧問として重用。シュネルは松平の家臣たちに武器の使用方法を教えた。松平からは「大将」の位のほか和名「平松武兵衛」を授かり、武士の娘「じょう」と結婚することを許された。
 しかし、戊辰戦争で会津藩は敗北。シュネルは松平にカリフォルニアに新天地を開拓することを提案。戊辰戦争に敗れ、領地を没収された松平はカリフォルニアに会津の未来を見出しシュネルに託したのかもしれない。こうして69年4月、松平の支援のもと、妻と幼い娘、そして子守りのおけい(当時17歳)と移民団を引き連れ渡米。新天地を目指したのだった。

移民団、意気揚々と入植
茶と絹の栽培を計画

 それから一行は69年6月8日にはゴールド・ヒルに到着。デイリー・アルタ・カリフォルニア紙はその後も一行の動向を報じている。同年6月16日付紙面にはシュネルがゴールド・ヒルにあるグレイナー家から「グレイナー農場」を購入したとある。この場所が若松コロニーだ。現在も跡地に残る家は54年にグレイナー家のチャールズ・グレイナー氏によって建てられたものだ。
 記事ではシュネルが購入した土地は絹と茶の栽培に適し、これから敷地内に各家族の家を建て、桑と茶の木をそれぞれの家族に割り当て、栽培する予定であることが紹介されている。
 計画によると、各家族が蚕の飼育や、繭の手入れをし、その質と生産量で給料を受け取り、生産された生糸は輸出もしくは国内メーカーに販売される。茶も同様に各家族が茶の葉を栽培し、茶葉を摘み、工場に送付するまでの工程を行い賃金が支払われるといったものだった。
 同年10月24日付の同紙には新たに男女13人が到着したと報じられており、若松コロニーの入植者は合計22人になった。<羅府新報1月1日付け(https://bit.ly/2Cuy4xH)より転載、つづく>

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