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羅府新報=アメリカ本土日本移民入植150周年=夢と希望胸にカリフォルニアへ=(4)

おけいの墓知れ渡る
日系社会で一大旋風

 若くしてアメリカに渡り、19歳という若さでこの世を去ったおけい。その墓は死後、長く知られることはなかった。墓を尋ねる人も、花を手向ける人もなく、1人寂しくカリフォルニアの大地に眠っていた。こうしてアメリカの土に眠る最初の日系移民の女の子となった彼女の存在は忘れ去られたかに思われた。しかし、ある記事がきっかけとなり、彼女の存在は広く日系社会に知れ渡ることとなる。
 1913年8月29日付の邦字新聞「新世界」には「コロマ近郊に明治4年(1871年)に建てられた日本人の墓がある」と書かれた記事がある。この記事の中ではおけいの名前こそ出てこないが、かつてそこに日本人一行がおり、茶山造営に失敗したとあることから恐らく若松コロニーのことであろう。71年はおけいが亡くなった年であり、場所と死亡年はおけいと一致する。しかしまだこの時点ではおけいの存在は広く知られていない。
 世に知れ渡ったのはその後、サンフランシスコの邦字新聞「日米新聞(現在は廃刊)」の記者・竹田文治郎(雪城)がおけいの墓の存在を最初に記事にしてからだった。コロマ在住の果樹園経営者・国司為太郎氏の情報のもと、日本人のものとみられる墓の場所に竹田が行き記事にした。この記事によりおけいとその墓の存在が広く日系社会に知れたのだった。
 24年7月12日付の日米新聞に「自分がおけいの墓について書いた『おけいの墓に詣でる記』を書いてから8年がたった」と書かれた記事があり、「自分が『おけい』を覚束ない(おぼつかない)筆ながら世に紹介して以来―」との記述がある。筆者はペンネームとみられる名前を使っているが恐らくこの筆者が竹田ではないかと思われる。だとすると記事が書かれたのは1916年。おけいの存在が世に知れたのは死から半世紀近く経った後だった。
 その後、20~30年代の地元の邦字新聞にはおけいに関する記事が多数掲載され、アメリカ本土で最初に亡くなった女の子の話は日系社会で一大旋風を巻き起こした。おけいの墓参りツアーも頻繁に実施され、おけいの物語を伝えるラジオ番組も制作されたほどである。

浮かび上がるおけい像
目輝かせ思い出語るヘンリー氏

ヘンリー・ビアキャンプ氏(ARC提供写真)

ヘンリー・ビアキャンプ氏(ARC提供写真)

 ここにある新聞記事が残されている。そこからアメリカという異国で、現地の家族から大切にされ、わが子のように愛されていたおけいの姿が蘇る。
 記者はおけいが眠る墓の敷地の主にインタビューをする。それが初代ビアキャンプ家の長男ヘンリー・ビアキャンプ氏(1851―1934年)だった。彼はおけいがビアキャンプ家に引きとられた時から家族の一員として一緒に過ごした人物だった。記事によるとおけいとは良き友で、おけいのことがとても好きだったようだ。
 「純潔な品の良い日本娘であった―」。頬を赤く染めそう話すヘンリー氏はこの時すでに80歳。おけいがビアキャンプ家に引きとられた時、彼は19歳だった。すっかり年老いたヘンリー氏だったが、おけいのことを話す時、彼の目は輝き、その様子を見ていた記者は彼がまるでおけいのことを愛していたかのようだったと書く。(「日米新聞1931年4月23日付」)
 ヘンリー氏によると、おけいは西洋の洋服は着ず、いつも色鮮やかな美しい着物を着ていたそうだ。またおけいが息を引きとった場所はヘンリー氏たちが暮らしていたビアキャンプ家の一室だったという。
 その時ヘンリー氏はシュネルの遺留品である短刀を保管しており、取材に来る記者に見せていたようだ。またおけい以外にも若松コロニーには「みわ」「おきよ」という女性がいたことも証言している。(「日米新聞27年9月26日、31年5月14日付」)
 ARCのタニモト氏によると、ジョン・ヴァン・サント著書の「パシフィック・パイオニア」にもヘンリー氏の証言で、「おけいは英語をそんなに話さなかったがとても明るい子で、母から教わった縫い物や料理をすぐに習得し、母からもとても気に入られていた」とあることから、ビアキャンプ家から大切にされていたおけいの人物像が浮かび上がる。<羅府新報1月1日付け(https://bit.ly/2Cuy4xH)より転載、つづく>

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