臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(45)

 いくつかの結婚式の料理がつくられた。新郎の父親は豚の半分を買い、それを煮たり、揚げたりして、いろいろな料理をつくった。そのほか、みんなが日常的に食べている料理もテーブルに並べられた。飲み物は、飲みつけているうすいコーヒーで、大人にはピンガがふるまわれた。かしこまって、互いに遠慮しあっている新郎新婦以外は、みんな楽しんでいるようすだった。
 日本人会の会館は日本語の学校としても使われるようになった。
 グァタパラ耕地の入植者は子どもたちに日本語を習わせたかった。日本に帰ろうと考えていたからだ。それはブラジルで生活している日本人全員の願いともいえた。だから、日本生まれブラジル生まれにかかわらず、日系人の子どもは全員日本学校に通っていた。
 グァタパラの日本人のなかでいちばん学識のある人間は九州、福岡県出身の前田という人だった。高等学校まで勉強していたから、書くほうも堪能だった。日本語の文字はむずかしい。単音の平仮名とカタカナがそれぞれ51あるほか、山のように漢字がある。漢字にはいろいろな読み方があり、また文字を組み合わせて、熟語もつくられるのだった。
 前田先生は子どもたちに複雑な字を教え、じょじょに、親たちが日本で受けた思想を受け継がせようとした。あの愛国主義と公徳心を国民に浸透させた考え方だ。愛国主義は当時のグァタパラ耕地の日本人の間にもっとも強く影響した思想といえよう。
 日本人会の会館は日本精神を涵養する場所でもあった。愛国心は日本では学校で教えられたが、ブラジルでは日本人会がその役目をになったのだ。
 会館で最初にとりおこなわれたのは天長節の儀式だった。ブラシル人にとっての独立記念日が日本人にとっての天皇誕生日にあたる。
 この日、正輝はすでに渡伯して3年たっていたが、はじめて自分が日本人であることの確信をえた。いま、自分がいるのは新城の学校のような気がしたほどだ。周囲の環境こそ違え、儀式は全くおなじだったからだ。けれども、この類似性を奇妙に感じなかった。日本であれブラシルであれ、天皇の民として忠義の誓いを厳格にはたしていたのだから…。
 まずはじめに、全員が東をむいて皇居を拝んだ。これが東方遥拝とよばれるものである。もっとも、沖縄では東をむかず北にむいて拝む。したがって、これは移民たちがそう呼称したのかもしれない。そのあと、天皇陛下に最敬礼した。つづいて、1890年に発令した明治天皇の勅令である教育勅語を朗誦する。
 正輝はこの勅語を長いことしていなかったが、ほとんど全部を思い出すことができた。けれども、意味がぜんぶ解ったわけではない。はじめの部分は何回もくり返すので、正輝にもまた大部分の移民にも記憶できたのだった。
「朕惟フニ、我ガ皇祖皇宗、国ヲ肇ムコト宏遠ニ、徳ヲ 樹ツルコト深厚ナリ」
 そこには正輝をはじめブラジルに在住する日本人の基本的な概念が示され、天皇の神性を説き、その徳性ゆえに日本国天皇の存在は大きく、また不滅であると記してある。
 つづいて、勅語は父母への忠孝と尊敬を高め、兄弟、親子、夫婦がむつまじく過ごすこと。また、行動は慎み深く、他人に博愛の手をのばすように教えている。
 正輝は特に「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ」というところが好きだった。