カフェランジア=平野運平百回忌法要に300人=山下会長「団結で伝統繋ぐ」=運平広場に胸像再贈呈へ

平安山光明寺の前で記念撮影した出席者

平安山光明寺の前で記念撮影した出席者

 入植僅か半年で80人もの日本人がマラリアで斃れたことで有名な平野植民地―その創始者である平野運平師の「没百回忌法要」が10日、平野農村文化体育協会(山下薫ファビオ会長)で行われた。昨年7月の眞子内親王殿下ご訪問を受けて活気づく同村では、僅か9世帯ながら師の功績を後世に残すべく村一丸となって準備にあたり、呼応するように元住民ら300人が駆けつけた。

 「眞子内親王殿下にご訪問頂き、先人の歴史と伝統を繋いでゆくための大きな励みになっている。9世帯しかいないけれども一致団結して盛大に開催できたことは誇り」―法要を終え、山下会長はこう振返った。
 午前9時に平野運平墓地で墓参り。場所を移して鎮魂碑と平安山光明寺で、西本願寺の梶原マリオ俊栄総長ら導師により法要が行われた。焼香では参列者が長蛇の列を成し故人の遺徳を偲んだ。
 式典には、ノロエステ日伯文化連合の岡地建宣第一地区会長、アジウソン・シリロ・デ・パウラ同市議会議長、静岡県人会の原永門会長、野口泰在聖総領事らが出席して挨拶。原会長は「静岡県出身の偉大な先駆者、平野運平師の足跡を記憶する植民地の皆さんに感謝したい。平野師の理想は実現し、一世紀も続く。それは己を省みず、移民に尽くしたからこそ。当会としても平野師の功績を後世に残していきたい」と話した。
 3度目の訪問となった野口泰在聖総領事は、昨年の眞子内親王殿下ご訪問に触れ、「平野植民地での温かい歓迎に殿下も感銘を受け、親しみを持たれていた。大成功で終えられたのは皆様のお陰」と謝意を滲ませた。
 梶原総長は「ここに居られる方で、平野師の生前を知るものはいないでしょう。一世紀を過ぎても皆さんが集まって遺徳を偲ぶということは、素晴らしい功績を残されたからこそ。ご先祖様のご苦労があってその尊い命を受継いで今日我々がいる。そのことに感謝しましょう」と説いた。
 その後、会館に場所を移して昼食会に。記念プレートの除幕が行われたほか、安永信一ノロエステ連合会長に対して感謝状が授与された。昼食会では、平野植民地の足跡が映像で映しだされ、出席者らは昔話に花を咲かせていた。
 同村出身でサンパウロ市在住の山下義勝さん(74、二世)は「光明寺の棟上げで餅を撒いて盛大に祝ったのを今でも覚えている。50年代は弁論大会や運動会もあって全盛期だった。祖先の苦労のお陰で今の生活がある。植民地も人が亡くなって寂しくなるが、歴史を忘れてはいけないね」と感慨深げに語った。
 なお、同会は没百年を記念し、サンパウロ市市カンブシ区エスタード大通沿いに位置する平野運平広場で盗難に遭っていた平野運平胸像の再贈呈を今後行う予定だ。
 平野運平は、東京外国語大学西語学科卒業後、通訳5人男の一人として渡伯。笠戸丸移民62家族232人を率いてグァタパラ耕地に入耕した。移民の側に立った仕事に精を出し、耕地の副支配人に抜擢されるも、その高給を蹴って殖民事業に専念し、34歳の若さで亡くなった。

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 昼食会が催された会場は1965年の入植50周年に建設され、2015年の入植百周年を記念して約25万レを投じて拡張された新会館だ。同村で最年少の山下ファビオ会長就任以降も、設備の維持管理を小まめに行ってきた。昨年には、第1ロッテにある開拓先没者慰霊之碑をきれいに整備し、脇には雨風を凌げるよう屋根を設置。眞子内親王殿下が訪問された際は、でこぼこ道だった会館から慰霊碑まで5キロの道程を整地し、砂埃が立たないように水まで撒かれているという徹底ぶりだった。「祖先が残した歴史を風化させないようにするのが我々の使命」と山下会長は言う。わずか9世帯ながらも、300人以上の百回忌法要を盛大に催した平野植民地の皆さんには脱帽。