『百年の水流』開発前線編 第四部=ドラマの町バストス=外山 脩=(13)

 ここで少し補筆しておくが、1941年末の日本の開戦後、連合国側についたブラジル政府は翌年1月、日本との国交を断絶した。同時に在伯日本人を敵性国人と指定した。さらに、敵性国資産の凍結令を発した。これはブラ拓にも適用された。サンパウロの本部には、州政府からブラジル人のインテルベントール=監察官=が派遣された。
 ブラタク製糸のバストス工場にも、工場長が送り込まれた。
 1943年、ブラ拓に清算命令が下った。実際の法的手続きは戦後になったが、業務は停止状態になった。ブラ拓には系列会社が幾つかあったが、殆どが閉鎖を余儀なくされた。南米銀行は、資本の内国化を強制され、経営権は非日系人の手に移った。(戦後、買い戻した)
 不幸中の幸いというべきか、ブラタク製糸のみが、そのまま存続できた。生糸がブラジル政府の奨励産業になったからである。

アッと言う間に崩壊

 1945年8月、戦争が終わった。
 大好況に沸いていた蚕糸業界であったが、日本の生糸輸出再開の噂で市況は一転、暴落した。蚕種も繭も生糸も…。
 蚕糸産業は、アッと言う間に崩壊した。120~140カ所といわれた製糸工場は、数カ所を除いて操業を停めた。無数の農家が桑畑や養蚕小屋を放棄した。
 生糸の取引きは止まり、繭は捨て値同然となった。
 事業拡張のため投資中だった業者は、どこも、その資金の回収さえ出来なくなった。
 バストスでも同じだった。バストス産組は巨費を投じて建設した大型蚕種製造所が操業を開始した時点で、この破局に突入した。資金繰りの歯車が砕け散り、組合員の預金は一切引出し不能となった。ブラタク製糸も、総ての支払いが滞る様になった。他の業者も大同小異だった。
 繭の生産量は1945年の計870㌧が、46年には90㌧まで落ちた。47年、繭は捨て値同然となった。620戸と言われた養蚕農家は50戸へ激減した。
 その煽りで、バストスはバストスそのものが半ば壊滅してしまった。金融が極度に逼迫、昨日の大金持ちが今日の食に窮し「屋根の瓦を剥いで売り食いしている」という噂が立った。
 住民の他地方への移動が始まり、それは後を絶たなかった。人口が5分の1に減ってしまった区もあった。
『バストス二十五年史』によれば、退植者が放棄、荒涼とした農場跡に、冬ともなれば、何処からともなく野火が入って、茂るに任せてあった雑草を焼いて行った。その度に養蚕小屋が次々と黒煙りを上げて焼け落ちた──。
「……時あたかも移住地は養蚕不況による経済破滅期で、衰亡の兆頻りに…(略)…人心極度に動揺…(略)…」という描写もある。
 別の資料は「バストスの人口は1万1千人から元の6千人に逆戻りしてしまった」「1949年には、人口は3分の1へ減っていた」と記している。
 蚕糸王国の呼称は生まれた瞬間、消えていた。
(つづく)