『百年の水流』開発前線編 第四部=ドラマの町バストス=外山 脩=(15)

町に殺気が…

 同時期、各地の邦人社会に流言飛語がとびかっていた。その中に「日本海軍の艦隊が近くサントスに入港する。邦人を祖国に迎える使節を乗せている」という報があった。無論、デマであったが、それを信じ、艦隊を出迎えようとして、無数の日本人が地方から出聖した。サンパウロを足場に情報を集め、サントスに下るつもりであった。その中にはバストス人もいた。
 彼らは、街路を群れをなして行き交い、異様な雰囲気を発散させた。これに一般市民が警戒感を抱き、警察が日系社会に自主的解決を要求した。憂慮した敗戦派の有志が、戦勝派も招いて集会を開いた。そこで邦人社会の指導者格だった三人=敗戦派=が私見を述べた。が、その中に戦勝派を刺激する発言があり、状況を逆に悪化させてしまった。バストスからは、敗戦派の山中弘が出席していた。
 10月に入って日本の外務省から、終戦の詔勅(電文)が、万国赤十字社を経てサンパウロの邦人社会へ舞い込んだ。英文であった。敗戦派の有志が、それを日本語に翻訳、印刷物にし、各地の邦人集団地から代表者を招き、伝達式を行って手渡した。
 バストスから、その印刷物が届き、溝部幾太が移住地内の各区長を招いて渡し、区民に配布する様に依頼した。が、非協力的反応を示す者が多かった。止むを得ず、使者を各区に派遣、説明会を開いた。が、戦勝派がヤジで彼らを痛罵、取り合おうとしなかった。
 この頃、バストスには臣道聯盟の支部ができていた。臣道聯盟は、既述の興道社が終戦直前に改称して再発足した団体で、戦勝説をとっていた。
 そういう現地事情をよく知らず、サンパウロから敗戦派の宮越千葉太、野村忠三郎らが、バストスを訪れた。彼らは戦勝派を啓蒙のため、各地を巡回しようとしていた。が、敗戦認識を唱える集会など、到底開ける空気ではないことを知って断念、次の予定地へ向かった。
 この後、溝部たちは、啓蒙運動への協力を、各区の青年団代表を招いて要請した。ところが、猛然たる反発を招いてしまった。青年団も大多数が戦勝派だったのだ。
 1946年1月、サンパウロの敗戦派が、祖国の戦災者を救援する運動を起こした。彼らは、この運動を通じ邦人が──戦時中絶えていた──日本の縁者との連絡を回復、戦争の結果に関する正確な情報を得ることを期待していたのである。バストスでも、産組内に事務所を開いた。しかし戦勝派によって追い出されてしまった。
 敗戦派は明らかに状況を誤認していた。こういう場合…つまり頭に血がのぼってカッカしてる相手に、過ちを気づかせるためには、時間をかけ気持ちが落ち着くのを待った後、徐々にすべきであった。ところが性急にやったため、却って反発を招き、火に油を注ぐような結果を招いてしまったのである。
 バストスでは、この頃から、脅迫状が敗戦派へ送られたり、建物の壁に貼り出されたり、落書きされたりするようになった。脅迫状の文言は、敗戦派の“死”を予告していた。
 町に殺気が流れ始めた。(つづく)