インディオから学び共生する戦後移民、山木源吉

山木源吉さん

山木源吉さん

 「インディオは猿を食べる。どうやって食べるかといえば、そのまま焚火にくべて丸焼きにするんだ。最初、毛が焼ける臭いがして、腹がプクーッて膨らんで、ポンって弾ける。そのうち頭が焼けてきて、歯をむき出したような顔になるんだ。正直って食べる気しないけど、皆と一緒に食べたよ、もちろん。他に食べるものないんだから」――インディオに憧れて移住してしまった山木源吉さん(76、山形県)=サンパウロ州カンピーナス市在住=の話は実に刺激的だ。
 1月にあった南米産業開発青年隊の総会の折、山木さんと話す機会があった。渡伯のキッカケを尋ねると、「中学の時に『裸族ガビオン』(杉山吉良、光文社、1958年)という本を読んでインディオの生活に憧れてね、なんとかブラジル行きたいと思って、産業開発青年隊に入って来たんだ」と振りかえる。
 1943年1月生まれの戦中派で、1962年に8期生として渡伯した。「戦後移民にも一風変わった人がいるものだ」とつくづく感じる。
 本紙12年1月1日号に児島阿佐美記者による、山木さんのインディオ共生体験の必読レポート(https://www.nikkeyshimbun.jp/2012/120101-91colonia.html)が掲載されている。
 でもコラム子が会ったのは今回が初めて。今でも年に一度、マット・グロッソ州のインディオ部落で3カ月から半年ぐらい生活しているという。「インディオと同じ生活をする。彼らと一緒に狩りをして魚を釣る」
 山木さんの妻はインディオ部落で育ったブラジル人で、その部落に6年ほど住んでいた縁で結婚し、今もその部落を訪ねては妻の実家に世話になって暮らすのだとか。「部落で結婚式を挙げた時は、550人もお客さんが来たよ。盛大だったな。つき合いのあるカラジャー族、タペラバ族とかからも。皆が牛、豚、魚を持ち寄ってくれた。でもアルコールは一滴もナシ!」と上手にオチをつける。インディオ部落で結婚式を挙げた最初の日本人かもしれない。
 山木さんは農業高校を卒業して青年隊の山形県隊に入隊し、測量などを勉強した。「半年もインディオ部落にいて、毎日何をしているんですか」と単刀直入に尋ねると、「原始林を歩くのが大好きなので、毎日楽しい」という。ちょっと普通の日本人ではない。「普通は原始林で迷ったら、出ることばかりを考えて焦るでしょ。インディオは違う。原始林で生活できるから、どこでも生きていける。彼らから原始林でも生きていく方法を学んだ」。
 他部族が攻めてきた時のために、インディオは家の中に戦闘用の矢を何十本も常備しているのだという。「狩りで使う矢は、遠くへ飛ばすから長い。戦闘用の矢はもっと近くで当てるから短かめ」だという。一緒に住まないと分からないことだ。
 さらに、「ジャングルを歩くときに、青年隊で習った測量の技術が役に立っている。最近、息子に買ってもらったGPS(衛星測位システム)も役に立っている。原始林の中を歩くのが大好きだから、そこそこの川岸目指してってジャングルに入っていくだろ。GPSを持っていくと、大体迷うことなく目的地につけるんだ。とっても楽しいね」とニコニコする。
「僕は案外、運が良かったよ」と唐突に言うので、どんな運が良かったのかと聞くと、「三度、棺桶に入りかけた」という。まるで禅問答の様だ。良く聞くと、どうやらインディオと生活していて3度、致命的な感染症に罹ったらしい。「マラリアかデンギか黄熱病か、良く分からない」と笑う。
「立ち上がれないようになって、飛行機で町まで運ばれて治療を受け、一命をとりとめた。一度なんてFAB(ブラジル空軍)の飛行機でマット・グロッソからリオまで運ばれ、オズワルド・クルス研究所に入院したこともあるよ」
 本人はいたって満足した生活をしているが、山形の実家はそうではないらしい。「聞くところによると、実家の方では、『源吉は仕事もせずに、マット・グロッソでインディオとホイホイ遊んでいるらしい。どうにもこうにも恥ずかしい』という理由で、留守家族会には出ていないらしい」という。あまりに〝一風変わっている〟ので、理解するのは難しいかもしれない。
「同じ黄色人種として、インディオは山木さんをどう思っているんですかね?」と訊くと、「ああ、誰も日本なんて知らないからね。他の部族から来たと思っているよ。だから自己紹介するときに言ってやるんだ。『オレの部族はデカいんだゾ。ここの部落の何十倍もある』って」と豪快に大笑った。
 戦前に「サンパウロ州新報」の社主だったインテリ笠戸丸移民・香山六郎は生涯の最後をツピー・グワラニー語研究に捧げた。《ツピー語の単語で、意味が日本語と同じ、または類似のものを数多く見出し、私の全身の血も神経も希望にたぎりだした》《日本語と深い関係があるのじゃないか》(『香山六郎回想録』(人文研、76年、最終章)との心境に達し、3千語の辞書として51年に刊行した。ただし、現在の言語学の観点からは日本語とツピー語の間に関連性は認められず、香山の直感はハズれた。
 ただし、2014年10月24日付エスタード紙には、ミナス州で発掘された大昔のインディオの頭蓋骨から、ポリネシア人と一致する遺伝子が検出されたとの記事が出ていた。日本人がポリネシア人と近いことは言うまでもない。
 香山が期待した《日本語との深い関係》はムリだが、山木さんが冗談で言った『オレの部族はデカいんだゾ』というグローバルな同族意識は、地球環境を優先すべき現代において「あながち間違っていない」という感じがする。(深)