『百年の水流』開発前線編 第四部=ドラマの町バストス=外山 脩=(18)

蚕糸の鬼

蚕種製造所(1932年)

蚕種製造所(1932年)

 話を終戦直後に戻す。
 バストスでは蚕糸業者が次々、廃業していた。そういう時、その蚕糸業に執着していた男がいた。
 橋本光義という山梨県人である。資料類は彼を「短躯ながらも剽悍、直情径行、志操強靭、蚕糸の鬼」と形容している。1900(明33)年の生まれで「蚕の中で生まれ、蚕と共に育った」という。生家が養蚕を営んでいたのであろう。4歳で父を亡くし、小学校を出た後、商店の小僧をしていた。が、15歳の時、志を立てて長野県松本市へ行き、蚕種製造所で働き始めた。
 その頃、この県では、山間の一農家が始めたささやかな蚕糸業が、日本屈指の大企業に成長する──という奇跡が起きていた。片倉製糸のことである。光義は第二の片倉を夢見ていた。蚕種製造所で働きながら、夜間の学校に通い、蚕糸技師の免状をとった。30歳の時、郷里に帰り、小さな蚕種製造所をつくった。が、皮肉にも片倉の経営政策の煽りで潰れてしまった。どういう政策であったかは、資料類は触れていない。
 志を転じ1938年、40歳に近い歳で、家族を伴ってブラジルに渡り、バストスに入植した。
 が次々と難に遭う。
 次男と構成家族の子供が病死。
 棉作に取り組んだが、収穫した貨車二台分の綿を火事で消失。
 妻と娘が病床に伏す。
 赤貧洗うが如き生活に陥る。用事があって町へ行こうとしても靴がなく、靴を買う金もなかった。
 上田絹織物に招かれたが、技術問題で意見が合わず、8カ月で辞職。
“新組合”に入ったが、役職員と悶着を起こし、1年3カ月で退職。
 コレイア・フランコ社と共同事業を試みたものの、終戦直後の業界崩壊の中で、同社も閉鎖。
…という具合だった。
 それでも諦めず、戦後も個人で蚕種をつくり続けた。
 1949年、やっと光がさした。市場で生糸が不足し、輸入の必要が生じる程になり、州政府が蚕糸業の奨励を始めたのである。この時、橋本はすでに廃業していた上田製糸(上田絹織物の後身)の工場を借り、蚕種の製造を始め、やっと事業を軌道に乗せた。後に養蚕、生糸生産……と間口を広めた。
 1956年には、工場と33アルケールの桑畑を所有し、従業員80人を使っていた。同年、日本から最新式機械を輸入、橋本製糸会社を設立した。(後述する再建後の)ブラタク製糸と競い合った時期もあった――という話を、筆者は往時を知る土地の人から聞いたことがある。
 その後、橋本光義は病没した。会社の経営は二代目に移ったが、1974年、工場で火災事故が起こり打撃を受けた。再建されることはなかった。

起死回生

 ブラタク製糸は終戦後、チエテ工場を閉じ、バストス工場だけで僅かに操業を続けていた。が、資金繰りの歯車はしばしば止まり、従業員に給料を全く払えぬこともあった。養蚕家への繭代は手形を切っていた。会社が商店で買物をする時は、借用書を渡していた。
 サンパウロの本社では、財務担当の天野賢治が、懸命の資金繰りをしていた。融資を受けるため南米銀行に一日中、飲まず食わずで居座ったこともある。
 1949年、ブラタクは愈々その息を止めようとしていた。従業員は最盛期の十分の一以下の30人になっていた。製造した蚕種100㌔の捌き先がなく、穴を掘って埋めていた。
 そこに、前記の州政府の奨励策が始まった。これで起死回生した。
 翌年、南銀から倒産した融資先の製糸工場(在ランシャリア)の経営を一任された。同年もう一カ所、休業中の製糸工場(在ツッパン)の経営を引き受けた。自身のチエテ工場も再開した。
 1951年、敵性国資産凍結令が解除され、州政府派遣の工場長が去り、後は谷口章が継いだ。
 なお、この頃バストスの製糸工場は、ブラタクと橋本だけになっていた。(つづく)