臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(56)

 その年はまだ日が出ない暗いうちから、夜、闇に包まれ何も見えなくなるまで、みんな懸命に働いた。雨が棉の大敵だから急いで摘まなければならず、昼食の時間もなかった。そんなに懸命に働かねばならなかったのかというと、雨との競争だったからだ。収穫物の全部を失うことになりかねない。
 次の収穫期には経済状態が少し楽になり、その時期に日雇い労働者を雇うことができたのだが、タバチンガで初めて収穫したときは自分たちだけでやりとげなければならなかった。
 収穫後の棉は雨から守るため、すぐに倉庫に入れられた。最後の列の棉を摘んでいたとき、買い手がやってきた。盛一は驚かなかった。収穫期には農産物をだれかがかならず買いにくるから、心配はいらないと、前から聞いていたからだ。そのときに、ただ、値段の取り決めをするだけなのだ。運搬費は買い手の負担だった。
 盛一は何の予備知識がなかったので、買い手側の値段を承諾した。それまでの経費をまかなえたうえに、次の植え付け面積を広げられるほどの金を手にすることができた。
 まるで、毎日、苦労するために生きているというぐあいに貧しく、極貧といえる生活に明け暮れ、挫折感ばかりが深まるなかで、みんなは贖罪の念にとらわれていた。
――どんなにがんばっても先は真っ暗で、不安だけが先にたつ――
「日本に送金もできないのに自分たちが贅沢したり、ゆっくり休んだりすることはできない」と罪の意識にとらわれて樽はいう。精をださない正輝にむけられているのだが、こんな言葉など、正輝は気にもかけない。樽はただ自分たちのこの状況を打破したいために愚痴るのだ。
 正輝はそのころになると、油っこいご飯にも、味の濃すぎる煮豆にも、野菜不足にも、茶の味にも文句をいわず、日本式のご飯にも執着しなくなっていた。叔父の樽も稲峰も同じだった。少しでも美味しいものを食べる、少しでも座り心地よく座ったり、寝心地よく寝たりする、付き合いで飲むなどという最低限に生きる楽しみさえ、あきらめてしまったのだ。疲労や苦しい生活が原因となって、何かよほどのことがない限り楽しもうという気をなくしていた。
 タバチンガの家は以前の保久原家や稲嶺家のように、生きるための最低限のものしかなかった。母国の外に仮住まいする在留民だという意識が、余計なものに金をかけたりさせないのだった。
 そんなわけで、石鹸はぜいたく品とみなされた。入浴、台所、洗濯に使う石鹸は自家製にした。正輝は石鹸のつくり方をすぐ覚えた。教わりながら変な原始的な方法だと思った。
「骨がとけるまで煮るんですか?」
とそのやりかたに疑問をもちながら聞いてみた。材料には豚の骨か牛の脂を使った。焚き火の周りに石を並べ、たらいをのせ、そのなかに苛性ソーダを入れ、材料を入れ、長い間、煮こむ。苛性ソーダと加熱により、材料がペースト状になる。均一なペーストになるまで、ときどきかき混ぜる。それがさめて硬くなると、板の上で切り、石鹸ができあがる。臭いもあり形もわるいが、りっぱに石鹸の役目ははたした。
 沖縄からきた移民は、日本からきた移民よりも質素で、習慣も粗野だった。しかし、日本人でも、ブラジルにわたった者は故郷の伝統的な習慣を守れなかった。たとえば、座敷にかけ軸をかけたり、生け花をいけたりなどは畑仕事に追われる身にはその余裕がなかったし、家の装飾に壁にずらりとカレンダーをならべてかけるところもあった。それがまた取引先を誇示することになり、「カレンダー文化」と揶揄されたりもした。