『百年の水流』開発前線編 第四部=ドラマの町バストス=外山 脩=(20)

進出企業と競合、生き残る

天野賢治

天野賢治

 順風満帆の、そのさ中、またもブラタク製糸の存亡に関わる大異変が発生した。1972~76年、日本の生糸メーカー6社が進出してきたのだ。カネボー、グンサン、昭栄、コーベス、東邦レーヨン、市田である。
 6社が進出したのは、日本の養蚕家の減少が主因であった。従って、いずれも生糸の生産、日本その他への輸出、ブラジル国内での販売を予定していた。
 生糸の本場日本の業者が、競争相手になったのである。太刀打ちできるだろうか?
 その頃、国内の生糸メーカーは十数社あった。結果的に1974年から83年にかけて、ブラタクを除き、すべて廃業した。品質面で対抗できなかったのだ。
 しかし、どうして、ブラタクのみが生き残れたのか?
 その答えとしては、まず日本から新技術を懸命に導入してきたことが上げられよう。
 さらに次々と手を打った。以下の様に――。
 1974年、昭栄、伊藤忠と合弁でショウエイ・ブラタクを設立、その蚕種製造技術を導入。
 同年、北パラナのロンドリーナに新工場を建設。
 大型資金を投じて、1975年新式の稚蚕共同飼育所、1977年改良マブシの生産工場を建設。
 製品を養蚕家に配布して収繭性を改善。(マブシ=蚕に繭をつくらせる用具)
 1980年代、日本の専門家と共同で、蚕種製造に関する技術改革をし、生産性を引き上げ、かつ高質生糸に生産の重点を移行……等々。
 進出企業に破れぬため、必死になっていたのである。
 もっとも、こうした新規投資のため資金を要したので、給料は低く抑えられ続けた。
 なお、その頃、バストスに於けるブラタクの比重は、極めて大きなものになっており、ムニシピオの税収入の40㌫は、同社とその関係者が払っていた。
「俺は死ぬヨ」
 この間、1979年、日本へ出張中の天野賢治が急逝した。75歳だった。出発前、平然と「俺は死ぬヨ」と会社の幹部たちに話していた。
 天野はいわゆる“侍”で、頭が切れ人情家で人望があった。すでに触れたことであるが、彼は日本の開戦の少し前、米国からブラジルへ転住、ブラ拓に入った。その頃、ブラ拓やその系列会社には橘富士雄、相場真一など後に高名になる同年輩の若手が居た。が、往時を知る人の懐旧談によると「天野は一頭地を抜いており、橘や相場の影は薄かった」そうである。
 この話は筆者には驚きだった。筆者の知る時期…ということは戦後も1960年代以降のことになるが、橘や相場は、日系企業の代表格に成長していた南米銀行の最高幹部であり、公職にも着き、輝いていたからである。同時期、ブラタク製糸は地味な存在で、天野の知名度も低かった。筆者は、当時、邦字紙記者として7年ほど日系企業の取材をしたが、この人に会ったことはなかった。(つづく)