連載小説=臣民=――正輝、バンザイ――=保久原淳次ジョージ・原作=中田みちよ・古川恵子共訳=(61)

 

 なぜなら、村には何人ものカマグワァーがいて、他の場所の者との間でまちがいがおきる。そこで、名前の前に名字をつけるようにした。二人を間違えないよう、フサコや親類の者たちは母をイイムイカマーと呼ぶようにした。彼女は一生この名で呼ばれた。むすめのカマーが結婚して名字が変わってからもである。
 保久原家の一部が沖縄の外にとびだしたのと同じ状況がアサト家にもおこった。生き残るために他国に場所を求めなくてはならなかったのだ。アサト家の場合は、保久原家よりずっと家族が多く、そのぶん状況はずっと切迫していた。食べさせなければならない頭数がずっと多かったのだ。
 1919年、後に正輝の友人となった房子の兄安里樽はブラジルに移住した。1922年、まだ16歳だった樽の姪カマーも、国保下と結婚し、移住してきた。はじめは旧コーヒー栽培地帯で働き、その後、棉の栽培地帯のアウタ・パウリスタに移った。のちにこの家族はハワイに永住した。
 家族は房子がその年齢に達し、また、条件が整ったときに移住させるつもりだった。それまで、当時できたばかりの沖縄の職業学校に入学させ、農業以外の技能を身につけさせようと考えていた。地方ではむかしから西洋医学の知識と技術をもつ医師が不足していた。そこで、この地でさかんだった中国の伝統医学の技術を身につけた。必要に応じて家族や友人を助けることができるからだ。
 富士山麓の静岡県浜松で、房子は2年ほど出稼ぎとして繊維工場で働いたことがあった。そこで、四季おりおり姿をかえる富士山を崇めながら、日本人のように、ふつうの日本語を流暢に話す技を身につけた。房子のいちばん幸な時期だったといえる。そして浜松の産婆学校で産婆の免状をとった。生活が目立って向上したわけではないが、いくらかの貯金もできた。それは家族にとってまた彼女自身にとっても大きな収穫といえる。
 移民の渡航費を援助する政府の方針は、沖縄の貧しい者たちにとってはひとつの光明だった。けれども、1925年に発布されたこの移民政策は、房子に不運だった。まず、年齢が達していなかった。ようやく年齢に達したとき、独身でいっしょに渡航する家族がいない。浜松には彼女と結婚してブラジルへ行くという男はひとりもいなかったのだ。すでに結婚しブラジルに渡った夫が妻を呼び寄せる場合にかぎって、政府は女のひとり旅を許可していた。
 ブラジルにいる兄の樽が書いてよこした手紙の解決法は、彼が推薦するだれかと委任状による結婚をし、そのあとすぐ渡伯するというものだった。
 こうして、1930年、房子は沖縄花城出身の我如古幾三郎と結婚した。我如古は33歳で、すでに10年もブラジルに住んでいたが、結婚相手が見つからなかった。独身で移住した者が、ブラジルで結婚相手をみつけるのは容易なことではなかった。ブラジルへの移住は農作業に適した人間、つまり男手の多い家族を優先した。必然的に未婚の女性は少なく、ましてや、当時は本土の移民と沖縄の女性が結婚することはほとんどなかった時代だった。幾三郎にとって、安里の提案はブラジルに家族をつくるまたとない機会だった。
 そして、年がら年中「イチ ニータチ スガ?(おまえいつ結婚するんだ?)」という質問に悩まされることもなくなる。委任状による結婚とはいえ、「結婚したぞ」と声を大にしていえるのだ。自分より10歳若い花嫁を胸を膨らませてまった。