『百年の水流』開発前線編 第四部=ドラマの町バストス=(28)=外山 脩

政府に潰された!

 

 水本の奇跡には、先に記した創造心以外に二つ要因があった。一つは連邦政府が1960年代後半から始めた農業奨励策=恩典付き融資=である。利子をインフレより低く設定、投資・運転資金を貸し付けた。差額分は利益となった。農産企業(含、組合)、農業者は何処も誰も、これで一挙に事業規模を拡大した。無論、水本も利用した。

 もう一つは1970年代に続いた高水準の卵の市況である。

 では、何故、水本の経営が急転、狂い始めたのか?

 それは政策の破綻による。

 当時、政府は農業界だけでなく、各種の産業界に様々な支援策をとり、巨額の予算を注ぎ込んだ。

 その資金は国内・国外から掻き集めた借金だった。デルフィン・ネットという元サンパウロ大学教授の経済閣僚が始めたこの借金政策は、70年代の2度に渡る石油ショック、それによって起きた金利の狂騰で破綻した。ブラジルは大破局に突入した。ハイパー・インフレが発生した。

 ために、政府は1983/4年、突如、恩典付き融資を事実上、停止した。この融資に頼って資金繰りをしていた農産企業、農業者は苦し紛れに高利の銀行融資に手を出した。その借入金は狂騰金利で雪だるま式に膨れ上がった。水本の場合、詳細については豊氏は語らなかったが、その影響は大きかったであろう。仮に蓄積資本を放出して手当てしたとしても、それによる企業の体力の衰弱は激しかった筈である。

 養鶏業界では悪いことが重なっていた。卵の市況の低迷である。これも資金繰りを窮迫させた。

 そうした中、政府はハイパー・インフレを押さえ込もうとして、異常な手段を取り続けた。価格凍結、預金封鎖と…。

 

水本氏談、続く。

 

 「1986年、卵価が凍結された。政府の下部機関が監視していた。大手の水本、伊藤、斎藤、コチア、スールの5カ所を監視の対象に選んでいた。(コチア、スールは、その鶏卵部門)。飼料は凍結外だった。監視外の所は、45%くらい高く凍結価格以上の値で売っていた。

 この凍結令に違反した容疑で、水本のリオの支店長が警察に引っ張られた。警察では、新聞記者やカメラマンが待ち構えていた。水本は、凍結令に忠実に卸していた。が、卸した先が高く売っていた。

 その店の人間が『水本が高く卸した』と警察に嘘を言った。ノッタ・フィスカルがあり、裁判では勝ったが…(打撃は大きかった)。

 1990年、預金が封鎖された。突如、銀行の預金が使えなくなった。小さい処は、あるていど融通が利いた。大きい所は利かなかった。銀行から借りて回していた。金利が膨らんで回しきれなくなった。水本は徐々にフェッシャの方向へ…2000年くらいからフェッシャし始めた。水本は政府に潰された」、「政府に潰された」という一言に込められた無念さが、筆者の胸を突き刺した。

 水本の運命の歯車は、ブラジル一となった1985年には、実は大逆転し始めていたのだ。ここにも「事業は絶頂期にある時が危ない」という事例があった。

 水本氏談、さらに続く。

「価格凍結の折、政府が監視していた水本以外の伊藤、斎藤、コチア、スール…も消えた。利益追求は、すばしっこさが必要。三流、五流、夜間の大学を出た様なのが儲けている。一流大学出は、殆ど駄目になる。点数だけでなくエスペルトさが必要」

 氏は一流大学のピラシカーバ農大の出である。

 事業の瓦解は、この人に強烈な衝撃を与え、混乱させ、それが長く尾を引いていたようだ。筆者が2012年バストスで初めて会った時、待ち合わせた文協が生憎閉まっていて、路上で話したが、氏は一向気にする様子もなく、ひどく高揚した調子で話し続けた。その内容は精神論的なことが多く、筆者は新興宗教か何かに凝ったのではないか…と思った。

 二度目にサンパウロで再会した時、場所はセントロからかなり離れたリオ・ピケーノという処で、態々、オニブスのポントまで迎えにきてくれた。が、顔つきが全く変わっており別人の様だった。

 精気がなく口数も少なく、病気ではないか…と気になった。事務所に連れて行ってくれたが、人は他に一人居るだけだった。何か事業をしている気配はなかった。

 筆者が本稿(養鶏に関する部分)の下書きを見せると、長い時間をかけて熱心に読んでいた。訂正要求はなく、追加取材に応えてくれた。それを終えると、オニブスのポントまで送ってきてくれ「何かほかに訊きたい事ができたら、連絡してください」と言ってくれた。その後、訊きたいことは多くできたが、急ぎの別用に歳月を費やして、遂に連絡することができなかった。2017年、やっと電話をすると、夫人が出て(氏は)数カ月前に亡くなったという。

 71歳だった。(政府に潰されたという無念さが、健康を害し、寿命を縮めたのではないか)と筆者は同情した。せめてその無念さを、生きている内に活字にしてやりたかった、と悔やんだ。(つづく)