連載小説=臣民=――正輝、バンザイ――=保久原淳次ジョージ・原作=中田みちよ・古川恵子共訳= (62)

 一方、房子のほうは渡航に必要な書類を手にすることは容易ではなかった。
 まず、結婚するための書類を用意するのに、何度もの手紙のやり取りが必要だった。当時は郵便事情がわるくものすごく時間がかかった。そして、全ての書類がそろったあと、名字を変更する作業がのこった。
 沖縄で我如古ウザと登録した。書類は全部我如古ウザの名でなくてはならなかった。政府は移民政策を打ちだしてから、実にいろいろな書類を提出させた。志操堅固な住民であること、農業に従事していること(ブラジルは農業者を必要としていた)を役所で証明してもらわなければならない。
 1930年4月4日、房子が生まれた沖縄県、島尻地方、具志頭郡、花城村、糸満の警察署長が、我如古ウザの操行証明書にサインした。
 「我如古ウザは1907年から当役所管内に居住し、常に品行方正であったことを証明いたします」と書かれてあった。また、当日、無犯罪証明書も出された。
 「我如古ウサは国内においていかなる法も犯さなかったことを証明します」と書かれてあった。これらの書類は兵庫県の神戸港のある神戸市において公証翻訳人によりポルトガル語に訳された。
 名前の問題は房子が生まれたときからつきまとった。
 ほかの沖縄人の場合、日本と同じで漢字の読み方の違いからくる違いだけだ。沖縄では名字をグスクマとよんでもシロマとよんでもよかった。発音の差だけで、どちらも同じ漢字なのだから、好きな方を呼べばよかった。グスクマは沖縄式、シロマは日本式の読み方に過ぎない。けれども、同じ家族がオオグスクとよばれたり、オオシロとよばれるなど、普通の人には考えられなかったことだろう。この場合も漢字は同じだった。けれども、房子の場合、家族内の愛称ウサグワァーが問題となった。
 沖縄では我如古という名字は誰でも知っている一般的なもので、ローマ字に書き換えるとき、なにも問題がおきなかった。房子はただ、ウサと短くなった当たり前の名字が、最初に神戸の移民担当責任者によって書き写されたときまちがって書かれたのだ。どうしてそのようなまちがいが起きたのか見当もつかないのだが、ガニコがガンヨコになってしまった。結局、旅券の名はガンヨコ ウサとなった。そして、日本でのすべての書類がこの書き方になった。日本外務省の傘下にある神戸移民収容所の長嶺医師がサインした健康証明書も同様だった。
 「ガンヨコ ウサは精神異常なく、ライ病、象皮病、癌、トラホーム、肺病、色盲、労働にさしさわる身体障害のないことを認めます。1930年6月2日」
 しかし、不思議なことに、同じ兵庫県から出された職業証明書には「上記の者の職業は農業」と書かれ、そこに書かれた名前はガニコ ウサと正しい名前が記されていた。
 房子は乗船する前、一週間ほどを改装された神戸移民収容所で過ごした。ブラジルに対する詳細な情報を得、新しい農業のテクニック覚え、ブラジル料理の講習を受け、簡単なポルトガル語を勉強した。言葉がまったくちがっていて、ポ語特有の発音ができなかった。1930年6月7日、リオデジャネイロ丸1号に乗船した。大阪商船(OSK)所有の1万トン船の処女航海だった。12年前正輝が渡航したときとは雲泥の差だった。初期の移民を貨物室に詰めこんで運んだ貨物船ではない。専用の新しい客船だった。3等キャビンには2段ベッドが入っていた。キャビンは共同だが、快適で、プライバシーもどうにか守ることができる。