臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(86)

 アイスクリーム屋をはじめて一年半のちに、3番目の子が誕生し、家族は喜びにあふれた。房子の出産を手伝うのは3度目だから、正輝はプロの産婆ぐらい機敏に働き、お産の助手として最高の腕を見せた。ナオシゲと名付けたのだが、あの奇妙な幼児の呼び名をかえるやりかたで、ヨーチャンという名でよんだ。(ヨというはじめの音節はパウケイマード耕地で生まれた樽の息子、正輝の従兄弟ヨシオからとったのかもしれない)。チャンは子どもを呼ぶときの日本人の習慣だ。
 3人兄弟のなかでいちばん頭が良さそうだった。少なくとも他の息子より発育が早かった。兄たちより早く歩きだし、マサユキやアキミツより早くしゃべり出した。いちばん後に生まれたのに最も両親の関心を引いた。日本人の家では(これは沖縄でも同然だが)父親の家系をつぐ長男が両親の関心を一身に受けるのがふつうだ。そして、下にいくにつれて両親の関心は薄くなる。ヨーチャンが生まれたことでそれが逆になった。アキミツはまだ2歳弱なので、次男なのに、3男として扱われたことに気づかなかった。
 ヨーチャンは6ヵ月目ごろには、三人のなかで一番気が短いという性分をあらわすようになった。他の兄弟よりよく泣いた。もっとも、それは両親が心ならずもそうさせていたのかもしれない。泣けば、何かにありつける。反対にアキミツはちょっとでも文句をいえば、叱られ罰をうけた。
 それでも三人の息子は両親の悩みの種にはならなかった。いや、むしろ、両親の喜びの源泉だった。三人とも幼かった。ヨーチャンが歩き出したとき、マサユキはまだ5歳になっておらず、アキミツは3歳になったばかりだった。
 家族はアイスクリーム店の裏に住んでいたので、親たちは沖縄で受けたように、厳しい道徳観念を子どもに植えつける義務を果たすことができた。どのような状況にあろうと、父親の命令には絶対服従すること。弟が兄と直接話すときは敬語を使うこと。直接でなくても、兄について話す場合も敬語を使うこと。こういうことは小さい子どものときから身に付けさせなければならないものなのだ。

 房子は少しずつ日本、そして沖縄の家族の価値観を子どもたちに伝えていった。彼女の家では、いや全ての日本人家庭というべきかもしれない。そうした教育をするのは母親の役目だった。はじめの教えは理由はどうあろうと、自分の感情を抑制すること、少なくとも、感情をおもてに出さないということだった。泣くということは子どもに不満があったり、痛かったり、逆らったりするときにすることで、泣いたら強く叱り、威しがきかなかった場合はビンタをくらわせた。彼女はそうすることで同じ過ちをくり返さないと思ったのだろう。ヨーチャンに対してそうしなかったのは彼が末っ子で、もう次の子はできないかもしれないと考えたからだろう。他の母親と同じように彼女は両親、年寄り、他人に対し反抗したり、指示にしたがわなかったりすることを容赦しなかった。だれの目の前でもどなった。子どもたちもそうされることを当たり前だと思っていた。
 従順、服従といったきまりを厳重に守らせるほか、房子は子どもたちの理解力が進むに従って、日本人の家庭に欠かせない風習やしきたりを少しずつ教えていった。この教えは沖縄も内地もまったく同じだった。