「天皇、そして日本人」を紹介したヨーロッパ人=サンパウロ市ヴィラ・カロン在住 毛利律子

朝見の儀を終えた皇太子夫妻、昭和天皇・香淳皇后(サンデー毎日 追悼臨時増刊「皇太后さま」より、宮内庁、Public domain)

朝見の儀を終えた皇太子夫妻、昭和天皇・香淳皇后(サンデー毎日 追悼臨時増刊「皇太后さま」より、宮内庁、Public domain)

 もうすぐ平成が終わろうとしている――。誰もが、自分の人生と重ねつつ、去り行く平成時代に万感の思いを馳せていることであろう。
 戦後生まれで、NHKスペシャル「映像の世紀」にあるような時代に生きるものは、多くのことを映像から学んだ。過去の二つの世界大戦のことも、悠久の世界史も日本史も、断片的であるにせよ、映像を見て、解説を聞いて学び知ったことは数知れない。
 日常の喧騒の中で、分厚い歴史書や書物を読破することはなかなか難しい。ひと昔前まで、読みたい本や、解らないことを知るためには、時間を工夫して図書館や本屋に通ったものだった。
 ところが今ではインターネットの「グーグル検索」という“大先生”がいるから、どこにいても自分の興味のあることは即座に検索して答えを知ることができる。出回る書物も、大きな活字でよみやすく、分かり易く、簡単に一言で解説、といった触れ込みの本が売れるので、知ったつもりになるが、いえいえ、かえって知らないことが多くなった。
 さて今この時、今上天皇の生前退位と、新元号の報道で、マスコミは沸き、日頃、皇室とは程遠い一般市民が、改めて日本国や天皇、日本人の本質的なことを再考する機会を得ている。普段見ることも使うこともない万葉の漢字や言葉、難しい皇室儀式でのお言葉、数々の古式ゆかしい伝統行事から改めて「日本国」を学ぶ時を得ているのである。
 世界に広がっている日本人も、漫然と一過性の海外報道番組を見て過ごすのではなく、家族揃って、大いに自分のアイデンティー(イデンチダーデ)について顧みるにふさわしい時機にしたいものだ。

1989年2月24日、昭和天皇の大喪の礼「葬場殿の儀」(Website of the Imperial Household Agency)

1989年2月24日、昭和天皇の大喪の礼「葬場殿の儀」(Website of the Imperial Household Agency)

▼初めて目にした「大喪の儀」

 昭和生まれのものは、日本のバブル経済のなかで、1989年1月7日昭和天皇崩御により、平成の時代を迎えた。
 そして平成元年2月24日、氷雨降る中、大喪の礼が執り行われた。そのとき国民は、「畏れ多くも」一連の厳かな皇室儀式を、テレビ画面で、解説者の説明を聞きながら目の当たりにしたのである。

 その中で私自身が最も印象に残ったのは、「斂葬の儀」の一部である「轜車発引の儀」、いわゆる出棺にあたり、天皇の「葱華輦(御輿)」を担ぐ人達、天皇の棺を担ぐ八瀬童子の姿であった。

「大正天皇崩御」の報に接し、ただちに葱華輦を担ぐ練習を始めた八瀬童子(歴史写真会「歴史写真(大正天皇御大葬記念写真帖)」より、Public domain)

「大正天皇崩御」の報に接し、ただちに葱華輦を担ぐ練習を始めた八瀬童子(歴史写真会「歴史写真(大正天皇御大葬記念写真帖)」より、Public domain)

 氷雨降る静寂の中、伝統的装束に身を固め、一糸乱れぬ規則正しい足音で、つま先で歩く様子を初めて見た。
 かつて八瀬童子のことを歴史小説で読んだことはあったが、初めて実際に目にして言葉にならない感銘を受けた。それは荘厳極まり、その足音が脳裏に強く刻まれて忘れられない。

▼壮麗なご成婚パレード

 もう一つは、昭和34年(1959年)の今上天皇皇后両陛下のご成婚パレードだ。このお姿以上に美しいものが、この世にあるだろうかと、当時、10歳の私の心に深く刻み込まれ、今でもその記憶は鮮明に蘇る。また、繰り返し報道される当時の映像を見るたび感動も一入である。
 私は、あの時のお姿以上に美しいものは、未だかつて見たことが無いという感慨を抱いている。
 日本国内にいても、一般市民が平時に天皇皇后両陛下のお姿を目にすることは稀なことなので、「天皇陛下がお出ましのようだ」という情報を得ると、居ても立っても居られない気持ちで家を飛び出し、群衆に交じって無我夢中で手を振る。
 お車はスピードを落していても、ホンの一瞬であるが、ご尊顔を拝することができると、まるで自分に手を振ってくれたかのように感激する。その感激は、何とも言えない幸福感であり、安心感と言えよう。
 両陛下のお姿を拝して平和な日本で生きていることに感謝するひと時。そういう感慨に浸れるということは、取りも直さず国の安寧を実感するときである。
(【注】「八瀬童子=室町期・延元(1336)年、後醍醐天皇が足利尊氏の軍勢を避け比叡山に向かった際、八瀬童子らが護衛し、輿をかついで登った。その功により納税が免除され、戦前まで続いた。現在も天皇の移動時の輿や、葬儀にあたる「大喪」で棺を載せた輿を担ぐ役割も任され、皇室と深いつながりを持つ。現在、同会には子孫ら約110世帯が所属している」

▼日本を紹介した出島三学者

ケンペルの想像図(The original uploader was Fuelbottle at English Wikipedia. [Public domain])

ケンペルの想像図(The original uploader was Fuelbottle at English Wikipedia. [Public domain])

 出島三学者とは、江戸時代、長崎の出島に来日して博物学的研究を行ったエンゲルベルト・ケンペル、カール・ツュンベリー、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの三人の学者のことである。
 当時幕府は鎖国政策によりオランダとの交易のみを認めていたが、三人はいずれもオランダ人ではなかった。この三人の学者によって、日本はヨーロッパに紹介されたのである。しかも日本人を讃嘆する書として。
 大阪大学言語文化共同研究プロジェクトの「出島三学者の日本人論」から、一部抜粋して紹介したい。
 エンゲルベルト・ケンペルは、ドイツ人医師・博物学者。元禄3(1690)年から元禄5(1692)年まで出島に滞在。長崎商館医を務めた。著書『日本誌』は、彼の死後英訳版で発行された。

カール・ツュンベリー(Carl Peter Thunberg (1743-1828) [Public domain])

カール・ツュンベリー(Carl Peter Thunberg (1743-1828) [Public domain])

 カール・ツュンベリーは、スウェーデン人医師・植物学者。リンネの弟子であった。安永4(1775)年から安永(1776)5年まで出島に滞在。長崎商館医を務めた。多数の植物標本を持ち帰り学名を付けた。日本人の通訳者や蘭学者に医学・薬学・植物学を教えた。『江戸参府随行記』を著わした。
 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトはドイツ人医師・博物学者。文政6(1823)年から文政12(1829)年まで出島に滞在。長崎商館医として着任したが、翌年には鳴滝塾を開いて日本人に医学・博物学の指導を行う。
 一方で、日本についての資料の収集に努めた。文政11(1828)年シーボルト事件を起こし、翌年国外追放。安政6(1859)年オランダ商事会社顧問として再来日。江戸幕府の外交顧問としても働いた。文久2(1862)年帰国。著書に『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』がある。これらの書物はペリーの来航にも影響を与えた。
 ケンペルの記述には、「日本全体が礼儀作法を教える高等学校」であり、この礼儀正しさが、「身分の低い百姓から最も身分の高い大名までたいへん礼儀正しい」。
 シーボルトも、日本には「厳然とした身分制度が存在しつつも、その態度や振る舞いに於いて日本人全般に大差がない」と指摘している。
 ツュンベリーは国民性を讃嘆するとともに、土地が良く開墾され、街道にある一里塚の標識が良く整備されていること。
《その国のきれいさと快適さにおいて、かつてこんなにも気持ちがいい旅ができたのはオランダ以外には無かった。また人口の豊かさ、よく開墾された土地の様子は、言葉では言い尽くせないほどである》
 彼らが、ヨーロッパ文化中心主義を基準にした比較論で日本を見ているとしても、「日本はヨーロッパ以外の世界では最も文明化された民族」と述べている。
 ツュンベリーは、日本民族が最も優れた人種であると日本人が信じ切っている。その根拠は、太陽に由来する祖先を持つからである。
 シーボルトは、日本人は自分の祖国に対しては感激家で、先祖の偉業を誇りとしている。教養ある人も普通の人も天皇の古い皇統に対し限りない愛着を抱き、古い信仰や風俗習慣を重んじる。

 三人の学者は、日本人の短所についての報告も怠っておらず、三人ともに、日本人が「タテマエとホンネ」を使い分けているということを指摘している。
 ケンペルに対しては、外国人に情報を漏らしてはならないと誓っている当の人物がケンペルに情報をもたらす存在であったこと。
 シーボルトに対しては、通詞(通訳)が「外向け」と「内向き」の二重基準を自覚し、シーボルト本人に公言していたこと。つまり、通詞は外向けには外国人に対して監視をするが、外国人の側の態度によっては、表向きの態度が変化し得る、という訳である。シーボルトは、こうして日本人が表と裏、ホンネとタテマエの二重基準があると指摘した。

▼はじめて皇統について言及したケンペル

天瓊を以て滄海を探るの図(小林永濯・画、明治時代)。右がイザナギ、左がイザナミ。二人は天の橋に立っており、矛で混沌をかき混ぜて島(日本)を作っているところ(Kobayashi Eitaku, Izanagi and Izanami, c. 1885. From Wikimedia Commons)

天瓊を以て滄海を探るの図(小林永濯・画、明治時代)。右がイザナギ、左がイザナミ。二人は天の橋に立っており、矛で混沌をかき混ぜて島(日本)を作っているところ(Kobayashi Eitaku, Izanagi and Izanami, c. 1885. From Wikimedia Commons)

 オランダ商館付医員として元禄3(1690)年来日したエンゲルベルト・ケンペルは「日本」という国を、初めて体系的に紹介する資料『日本史』を著した。それは、2年間日本に滞在した著者が、帰国後に執筆した日本風物誌である。
 日本にたどり着くまでの、バタビア(インドネシアの首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称)からシャム(タイ王国の旧名称)への旅の記録から始まり、日本の歴史や地理・自然、政治、宗教、貿易などの解説、終盤には江戸への参府旅行での経験、日本の動植物や、政治、文化など、様々なことが詳細な図版とともに客観的に解説されている。
 彼の遺稿はイギリス国王に仕えた侍医で収集家のハンス・スローンに売られた。スローンは『日本誌』(The History of Japan)を英語、フランス語、オランダ語にも訳し、ロンドンで出版された。『日本誌』は、特にフランス語版が出版されたことと、フランスの啓蒙思想家で初めて百科事典を編纂したといわれるドゥニ・ディドロが『百科全書』の日本関連項目に、ほぼ全てケンペルの『日本誌』を典拠としたことが原動力となって、知識人の間で一世を風靡することになった。
 それは、ゲーテ、カント、ヴォルテール、モンテスキューらも愛読し、ヨーロッパ19世紀のジャポニスムに繋がってゆくことになった。
 また、志筑忠雄は享和元(1801)年にこの付録論文を訳出したが、題名があまりに長いことから文中に適当な言葉を探し、『鎖国論』と名付けた。日本語での「鎖国」という言葉は、ここで誕生した。
 さて、ケンペルは、日本国天皇は紀元前660年に始まり、当時の1693年まで続いていることに触れ、要約すると、「同じ一族の114人の長男の直系子孫たちが皇帝位を継承しており、この一族は日本国の創建者である天照大神の一族とされ、人々に深く敬われている」と説明している。
 そしてケンペルは、日本には、聖職的皇帝(=天皇)と世俗的皇帝(=将軍)の「二人の支配者」がいると述べ、英語の翻訳では「エンペラー」となった。
 ケンペル以降、欧米からやってきた学者や使節団は天皇と将軍を「皇帝=エンペラー」と呼び、日本には「2人の皇帝が存在する」などと記録されるようになった。
 歴史的には、「天皇」という言葉は中国などの対外向けに制定された漢語表現であり、明治政府が天皇を中心とする新国家体制を整備する段階で対外向けの「天皇」を一般化させた。
 それ以前は、天皇は御所を表す「内裏」と呼ばれたり、御所の門を表す「御門」と呼ばれていた。「みかど」に「帝」の漢字を当てるのもやはり、中国を意識した対外向けであったと言われている。
 童謡の「ひな祭り」の歌詞、「お内裏様とお雛様…」の「お内裏様」とは天皇、皇族の名称となる。

 ここでは「天皇」と「王」の表現の違いや外国語に訳した時の「エンペラー」についての説明などは割愛するが、何はともあれ、元号も変わるこの時期に、できるだけ多くの日本の歴史を読んでみたいと思っている。
 旧約聖書では、アダムとイブが人類の父親、母親という設定であるが、日本では伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊耶那美尊(イザナミノミコト)であったと、古事記や日本書紀は伝えている。神武天皇から現代までの天皇のお名前や元号等々、知らないことばかりだ。
     ☆
 あたらしい時代を目前にして、普段触れることの少なかった日本の歴史などを通して、再発見の楽しみを味わいたい。

【参考文献】
Internet Archive、https://archive.org/
History of Japan
「出島三学者の日本人論 : 日本人の国民性をめぐって」2018
大阪大学言語文化共同研究プロジェクト.(OUKA)「ケンペル『日本誌』及び「鎖国論」:メモ」
http://www.FREEASSOCIATIONS.ORG/