明治天皇の曾孫はブラジル人=皇籍離脱後に渡伯した多羅間氏

多羅間俊彦氏

多羅間俊彦氏

 戦後、1947年に皇籍離脱した11宮家51人のなかにブラジルに移民した故・多羅間俊彦氏(旧名、東久邇俊彦王)がいる。終戦時の宰相を務めた東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)と明治天皇の第9皇女である聡子内親王(としこないしんのう)の間に生まれ、皇籍離脱した4年後の51年に外交官だった故・多羅間鉄輔氏の養子として移住した。当時の邦字紙では「昭和の天孫降臨」と呼ばれ、コロニアでは「殿下」の敬称で親しまれてきた。15年に多羅間氏が亡くなってから今年で4年。御代替わりの節目に、昭和、平成を生きた元皇族“多羅間殿下”を偲んで、アリッセ夫人、息子・アルフレッド稔彦(なるひこ)氏に話を聞いた。

 「祖父はフランスに留学し自由主義的な思想の持ち主だった。父もそうした影響を受けていたでしょうし、日本を出て海外を知りたいという冒険心もあったでしょう。焦土と化した国土を目の当たりに新たな人生をブラジルでやり直したかったとも言っていました」――稔彦氏は父の渡伯理由をこう推察する。
 アリッセ夫人も「皇籍離脱する以前は、大きな邸宅に使用人が50人いたそう。そんな中で急にブラジルにやってきた。だから、様々な人種と分け隔てなく付き合い、人生観を大きく変える経験を得たはず」と言う。
 特に、多羅間氏が生前よく話をしていたというのが、買収を検討していたマット・グロッソ州の農場を視察したときのことだ。駅から数日かけて馬に乗って向かい、夜に農場の邸宅に着いた。翌朝目覚めると茅葺屋根の上には夥しいほどの梟がいたという。
 日本にはない、そうしたブラジル独自の経験を経たためか、稔彦氏が生まれたときには、黒人女性を乳母に迎え入れたという。「子供に人種差別を持たせてはいけない。小さい頃から色々な人種と共存させたほうがよい」と話していたそうだ。

アリッセ夫人と明治天皇の曾孫・稔彦さん

アリッセ夫人と明治天皇の曾孫・稔彦さん

 ブラジル人とは気兼ねなく付き合う一方で、コロニアでは「殿下」の敬称で呼ばれた。アリッセ夫人は「元皇族の立場と関係なく、多羅間俊彦いち個人と結婚した。でも、周りの人が『殿下、殿下』と呼ぶので、後年になってから大変なお方と感じるようになった」とくすりと笑う。
 稔彦氏は「父もそれに応えてきちんと振舞うのは一種の責任と感じていたでしょうが、そういう環境で育てられたから、それが抜け切れなかったんでしょう」と話す。「ある時、自宅のテレビドアホンをいじっていたら、エレベーターに乗っている父を見た。普通だったら壁に寄りかかったりするかもしれないが、一人なのにピシッと立っていた。いつ誰が何処で見ているか分からないという意識が働いていたんでしょう。家にいる時も、床に寝転がったりすることはなかったですよ」と開陳する。
 15年4月に多羅間氏が亡くなった際には、宮内庁侍従を通じて、天皇皇后両陛下、皇太子同妃両殿下、秋篠宮同妃両殿下から弔意が伝えられた。皇籍離脱してから60年以上経過しているが、今でも現皇室、旧宮家との交流が続いているという。
 1981年、当時10歳の時に稔彦氏が初訪日した際、一家3人は東宮御所に招かれ、当時の皇太子ご一家に拝謁した。それから35年後の2015年10月に秋篠宮同妃両殿下がブラジルを訪問された際、秋篠宮殿下は当時のことを覚えており、稔彦氏にお話をされたそうだ。
 昨年には、ホテル・チヴォリにて眞子内親王殿下と特別にご引見を受けた。英国留学中には内親王としての身分を知られずに分け隔てなく交流されたご経験など思い出を語られ、「15年にお会いした秋篠宮殿下の皇女とあって喜びも一入でした」と語る。
 稔彦氏は「81年に祖父にお会いした際には、私が祖父と同じ名前とあって『ブラジルが近くに感じるようになった』とたいそうお喜びになった。小さい頃はあまり理解できなかったが、特別なご存在である皇室を祖先に持つことは大きな誇りです」と話した。
 「令和」時代を迎えるにあたり、アリッセ夫人は「天皇皇后両陛下におかれては、国民のことを常に案じて、慰めてこられた。平成が戦争もなく平和な世が続いたのは、両陛下が国をまとめてこられたから」と思いを語る。
 アリッセ夫人はブラジル生まれだが、戦時中には沖縄での地上戦を経験し、そこで祖父を亡くしている。「普通の家庭にも幸せが訪れることが感じられる素晴らしい新元号。令和も戦争のない平和な時代が続くことを願いたい」と見通した。(大澤航平記者)