臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(92)

 土地の大部分は綿作に当てられていたが、他の家族が別のものを植え付けられる土地がいくらでもあった。田場氏は正輝家族のほかにも沖縄出身の上原一家にも土地を提供していた。また、彼は正輝にすばらしい家を用意してくれた。1930年おわりごろの農村の家屋の水準をはるかに超えたりっぱな住宅で、住み心地も最高だった。建築面積が約100平方メートルはあっただろう。壁は煉瓦、居間や寝室の床は田舎の家ではめずらしい板張りだった。天井板はないが屋根はフランス瓦で敷かれていた。16平方メートルほどの独立した部屋が6室もあり、家は長方形で左右対称の間取りになっていた。台所は西側のはしで、正輝の畑とオウロ川に面していた。台所からは直接居間に入れるようになっていた。また、いくつかある寝室のひとつは台所から直接出入りができたが、そこは正輝夫婦が使った。
 居間には北向の家の正面から入るドア、台所に入るドア、3人の子どもたちの寝室に入るドアという具合に、三つのドアがあった。居間には床板が張られ、ジャカランダのテーブル、ガラス器の戸棚、食器棚が並び、気品あるみごとな雰囲気をただよわせていた。
 東にむいた家の後ろ側には独立した二つの部屋があった。一部屋はこれから先、正輝が「カマラーダ」とよぶようになる日雇い人を泊めるための部屋。そして、もう一方は農機具やアララクァーラの朝市にださない農作物をしまっておく倉庫だった。
 これは農業一般にいえることだが、手順よく作業をこなしていかねばならない。畑しごとは時間との戦いだ。自然は待っていてはくれない。休みなく働くから非常に疲れる。いつも同じことのくり返しだから退屈する。けれども、野菜の生長は早く、現金を手にするのに時間がかからないから、仕事に精が出るのももっともだった。町の商売と同じように元手を引いてしまえば、たいした儲けにはならない。しかし、町で商売に失敗した正輝にはよりよい選択だったかもしれない。
 農業技師や地形専門家によると、作付けには適した土地だそうだ。清く澄んだこの流域の水を、灌漑システム用にうまく使えるなど、この土地の住民は運がいいという。マシャードス区で耕作する家族たちの土地は平らではない。またボンバルダ耕地を境とする東側は、中央までは平地で、そこからオウロ川に向かって、ゆるやかな傾斜地になっている。そこが西側の堺で、ボア・エスペランサ・ド・スールに向かう街道にあたる。
 その傾斜を利用し灌漑をするわけだ。そのシステムはごく簡単だが、効率のいい方法だった。まず、共同作業で水門がつくられた。この水門は共同で操作することが決められた。水門はみんなが畑仕事に行くとき通る馬車道の左側にあった。
 水門が閉ざされると、澄んだ川の水が人工の小川に流れをかえる。西側の約三分の一までの高さまで流れる。その水はすべての畑の灌漑用に使われる。小川に流れこんだ水はみんなで使う。それぞれの栽培者は溝を掘り、必要な場所で必要なときに灌漑する。
 正輝一家が住みついた土地はオウロ川の左岸、灌漑用の小川の頭の地点だった。植えてから数週間で販売でき、回転の早い蔬菜類の畑は土地の一番低いところで、灌漑用水路の右側だった。計画的にそこを6面の長方形の段々畑にした。はじめの畑は溝の高さにし、2段目の畑は数センチ低くし、次々に段差をつけた。土を掘っただけの溝で、高低を利用し、全ての畑に水が行きわたるようにしたのだ。
 鍬で共同灌漑用水の流れる小川の右岸に水の出口を開け、それぞれの畑には副次的な目的で、溝を掘った。こうすれば、すべての畑に灌水することができる。また、一番高い畑のはしにそって、鍬で縦の溝を掘った。こううれば、各畑に水がまんべんなくいきわたる。流れを止めるには溝にまた土で栓をするだけでよい。一番上の畑全体に行きわたると、水は次の段の畑に下っていく。もし、下の畑に水が必要でない場合は、土を盛って、仕切りをつくり、水が下りるのを防げばいいのだ。畑全体に水がいらないときは小川の水が溝に流れ込まないよう、土で入り口を閉ざしておけばいい。
 水質を保つために、厳しい規則が定められていた。ごみ、排泄物、ことに有機物を捨てることは禁止されていた。川で放尿している現場をおさえられたときには、厳しい警告をうけた。子どもの場合、家族がその罰を受けた。