県連故郷巡りカリフォルニア=150周年、満砂那(マンザナー)に平和を祈る=《14》

収容所跡にひっそりと咲く桜

慰霊碑で仏式法要を上げる一行

慰霊碑で仏式法要を上げる一行

 丸紅ブラジル社のポルト・アレグレ出張所長という十分に立派な経歴の和田好司さんだが、「うちの奥さんは、私の7倍も年金もらっています」と自嘲する。
 恵子さんは家族に連れられて中学2年で渡伯し、現地で小学生に入りなおし、たった2年間で飛び級をして卒業。リオ連邦大学の大学院博士業を修了し、リオ・グランデ・ド・スル連邦大学の工学部教授を30年間務めあげ、10年前に定年退職した。
 恵子さんも「まだ大学に務めていた頃、アメリカのビザを取るために、総領事館で領事面接を受けたんですが、その時に私の収入証明をみて、領事が言うんですよ。『早く定年退職してアメリカに観光旅行して一杯買い物してください』って。普通そんなこと領事が言いますか?」と呆れた様子で笑った。
 恵子さんは「趣味で備前焼の陶芸をやっている」というが、アトリエにはロクロや1300度の釜まであるというから相当本格的だ。「もともと画家になりたかった。でもそれでは食えないので、大学教授になりました」と笑う。
 定年退職する10年前から書道をはじめ、日本の北振会で10段をとった。何をやっても突きつめる性格のようだ。現在、南伯援護協会で理事を務め、書道も教えている。
 このような様々な移住者の人生模様を聞けるのが、故郷巡りの醍醐味の一つだ。
    ☆
 4月12日(金)、一行は朝8時にホテルを出発し、マンザナー強制収容所跡に向かった。聖州の奥地は大きく波打つようにうねった地形が特徴だが、カリフォルニア州奥地は、山脈以外は驚くほどまったいらだ。
 海抜70メートルのロスから内陸部に入り、ひたすら北上すること4時間あまり。左にシエラネバダ山脈、右にイニョー山地に挟まれたオーエンズ・バレー(谷)を、一行を乗せたバスは休憩をしながらも370キロほどを走り抜けた。
 ロスのサンタモニカの海岸では皆がTシャツ、短パンのいでたちだったが、山脈の上の方には残雪がかなりある。南国風の海岸部とはまったく気候が異なる。
 同山脈のマンザナーの近くには、北米大陸第2位の標高4418メートルを誇るホイットニー山もある。バスを降りると、突然、冷凍倉庫に入れられたような冷たいが風が肌を刺した。
 両側を山脈に挟まれた渓谷のずっと奥にある標高1200メートルの何もない荒れ地に、大戦期こつ然と日系人だけの1万人の町、マンザナー強制収容所が作られた。この地形をだけをみても、当時どれだけ日系人が嫌われて、恐れられていたのかが分かる。
 晴天だが少しもポカポカしない。シエラネバダ山脈おろしが容赦なく吹き付ける中を、一行は強制収容所跡地の敷地内にある慰霊碑に黙々と向かった。ロスの洗心仏教会から僧侶の古本(ふるもと)竜太さんが駆けつけ、一行のために仏式法要を上げてくれた。

収容所を再現して博物館にした建物の間に咲く沖縄桜

収容所を再現して博物館にした建物の間に咲く沖縄桜

 用意された供花を置こうとしても風に吹き飛ばされた。収容所跡地を管理する国立公園局職員から、周囲のかん木が乾燥しており、お線香が飛ばされると火事になって危ないとの注意が入り、お焼香もできなかった。
 念仏と絶え間なく風が吹きつづける音の中、一行は順番に静かに手を合わせた。
 収容所跡地には、ひっそりと沖縄桜が咲いていた。誰かが故郷を懐かしんで植えたのだろう。
 一行の一人、足立富士子さんはその時の感想を、《マンザナーのもと収容所訪ねし日戦争のむごさ改めて知れり》と詠んだ。(つづく、深沢正雪記者)