400年前に黒船を作り対欧外交した支倉常長

支倉常長像(慶長遣欧使節関係資料、Unidentified painter [Public domain])

支倉常長像(慶長遣欧使節関係資料、Unidentified painter [Public domain])

 4月に県連故郷巡り一行はカリフォルニア州のコルマ日本人墓地で、咸臨丸の水夫3人の墓を見学した。その際、連載記事で《咸臨丸は1860年2月10日にサンフランシスコに到着した。38日間で8573キロを渡る大航海であり、日本人最初の太平洋横断だった》と書いたが、大変な間違いだった。
 「慶長遣欧使節団」を率いた仙台藩の藩士・支倉常長(1571―1622)がいたからだ。遣欧使節団は「初めて太平洋・大西洋の横断に成功した日本人」であると同時に、「日本人初のヨーロッパとの外交交渉」をした先達だ。
 慶長遣欧使節団の中には途中で現地に留まり定住したキリスト教徒の同藩士や水夫も多かったという。同使節団はスペイン南西セビリア近郊のコリア・デル・リオに長期滞在した関係で、この町には現在ハポン姓の人が数百人もいる。使節団の中で日本に帰らず定住した人の子孫と言われる。つまり「移民の先達」でもある。
 だが、スペインのハポン姓の人たちは、日本人性は完全に失ってしまった。そこにアメリカ大陸の日本人としては学ぶべき点がある。山田長政のアユタヤ日本人町の子孫も跡形なく消え去ってしまった。ブラジルは、その愚を繰り返してはいけない。

咸臨丸の247年前に太平洋を越えた180人

支倉常長の行程(Public domain)

支倉常長の行程(Public domain)

 咸臨丸からさかのぼること247年、仙台藩主伊達政宗は、慶長遣欧使節団一行180人を、1613年10月28日に仙台の東北東約70キロの月浦港から出航させた。3カ月かけて太平洋を横断し、翌年1月28日にメキシコ・アカプルコ港に到着している。
 そこからスペイン艦隊に乗り換えて、スペイン経由でローマまで行って法王に謁見し、仙台藩とスペインの通商交渉をした。徳川幕府がカトリック禁教傾向を強めている現実を知っているローマは、結局通商を許さなかった。支倉常長一行は何の成果もなく、7年後に失意のまま帰国した。
 このとき注目すべきは、仙台領内においてガレオン船サン・フアン・バウティスタ号を建造したことだ。当時の世界覇権国スペインは、ガレオン船の建造技術を国家の最高機密にしており、造船技術を外国に漏洩した者を死刑に処していた。そんな時代にスペイン人宣教師の協力で建造した。1613年時点で仙台藩は当時、世界最高の機密情報を持っていた。
 そしてメキシコまで3カ月かけて航海した経験まであった。支倉常長は、当時の覇権国スペイン国王や最高権威であるローマ法王とも交渉した。交渉が成功していたら、日本史はまったく違った展開を見せていただろう。
 咸臨丸のあと、明治新政府は1871(明治4)年、岩倉具視を全権大使とする欧米視察の「岩倉使節団」を送った。人数は107人と一見多い気がするが、慶長遣欧使節団も180人もいた。
 岩倉具視らは、欧州で支倉常長らの遺した文書を見せられ、日本史から消されていた彼らの存在を目の当たりにする。岩倉使節団は日本の産業がいかに遅れた状態であるかを痛感し、大きな劣等感に苛まれた。その一方で約250年も前の日本人の足跡を知り、岩倉たちは勇気づけられたという。

17世紀にアメリカ大陸にも日本人町作れた?

 日本は鎖国したことで、ただの「島国」になった。もしも「黒船」と言われたガレオン船の造船技術をさらに洗練させ、太平洋を我が庭として貿易して歩くようになっていたら、18世紀にはイギリスのような「海洋大国」になっていたかもしれない。
 日本の黒船が太平洋を縦横無尽に行き来していたら、250年後にアメリカからムリヤリ開国させられることはなかった。逆に、アメリカ大陸のアカプルコ、ロサンゼルスやサンフランシスコなどに日本人町を作るぐらいの展開になっていたのではないか。
 実際、アジアには日本人町を作っていた。タイのアユタヤ日本人町には最盛期には1500人も日本人がいた。現在のベトナムのホイアン、マレーシア、カンボジア、フィリピンのマニラなどにも日本人町があった。
 17世紀にアメリカ大陸に日本人町ができていたら、その後の歴史はまったく変わっていた。そんな夢想をするのも面白い。我々のようなアメリカ大陸の住民たる日本人にとっては、アユタヤの山田長政よりも、支倉常長の方がもっと尊重されていい人物だ。

キリスト教がつなげる外国と地方による倒幕

 キリスト教伝来と当時の日本国内情勢を解説した月刊誌『歴史街道』(PHP出版)4月号の特集《世界史で読み解く「戦国時代の真実」》によれば、16世紀後半、日本国内でカトリックは燎原の火のごとくに広まり、西日本で強い勢力を誇るようになっていた。
 その後ろ盾としてポルトガルやスペインがおり、そのカトリック大国の軍事介入を当てにして、キリシタンたちは島原の乱(1637―1638年)を起こした。
 《相手は戦いの素人だというのに、幕府を苦しめた。キリシタンの結束が強いだけでなく、カトリック勢力が後押しをして、鉄砲や弾薬などを与えていたものと思われる。この戦いにより幕府は国を閉ざすしかないと思い至った。鎖国体制である。島原の乱の翌年には、日本各地の沿岸に、外国船の接近に備えるための遠見番所を作っている。これは島原の乱が、単なる国内の一揆でなかったことの証左といえよう》(21ページ)
 キリスト教の布教を許せば、スペインやポルトガルに侵略されるとの恐怖から、江戸幕府は鎖国を決断した。布教と通商を切り離す方針の新教国オランダとだけ、ほそぼそと通商関係を保った。
 伊達政宗の慶長遣欧使節団も、通商交渉が目的とされているが、実は、世界覇権国だったスペインと軍事同盟を結んで、倒幕を図ろうとした説も存在する。
 徳川幕府としては、キリスト教布教を許すことで地方勢力が外国勢力と密接になり、倒幕を図ることを恐れた。事実、幕府を倒した明治維新では、フランスが幕府を、イギリスが薩長を支援していた。そうした外国勢力の介入なしに、明治という時代はありえない。
 この戦国時代から江戸初期の様子は、イエズス会士などが多くのキリシタン版文書として書き残しているために西洋に広く伝わった。
 日本は鎖国によっていったんはグローバリズムを拒絶した。この時代にポルトガル人が持ち込んだ「鉄砲を捨てた」ことは称賛されてもいいが、「黒船まで捨てた」ことは間違いだったのではないか――。

不遇な皇后テレザ・クリスティーナ

テレザ・クリスティーナ皇后(Adele Perlmutter-Heilperin (founded her studio in 1862) [Public domain])

テレザ・クリスティーナ皇后(Adele Perlmutter-Heilperin (founded her studio in 1862) [Public domain])

 『歴史街道』を読みながら、ブラジル皇后テレザ・クリスティーナ(1822―1889)を思い出した。彼女がブラジルに持ち込んだ蔵書の一冊に、イエズス会士らが当時日本で編纂したキリシタン版『日葡辞書』があった。それが昨年9月にUSPの田代エリザ准教授と信州大学の白井純准教授によって、リオ国立図書館で発見されていたからだ。世界に3冊しかない貴重な本だ。
 テレザ皇后はイタリア・ブルボン朝の一員として生まれ、「最後のブラジル皇帝」ドン・ペドロ二世(ブラガンサ家)の妃として生涯をおくった。王族として劇的な生涯をおくったが、その割に知られていない。
 1600年前後に日本で刊行されたキリシタン版は、ポルトガル王室を中心に欧州では珍重され大事に保存されて来た。ただし、度重なる欧州戦乱や地震による大火災などにより大半は焼けてしまった。たまたまテレザ妃がブラジルに嫁入りしたことによって、結果的に保存された。
 テレザは1842年9月、肖像画のみを見て、ペドロとの結婚を決め、伊ナポリで当人不在のまま代理結婚式を上げた。日本移民の写真結婚に少し似ている。
 テレザがブラジルに嫁入りしたときは22歳、一方、ペドロはまだ17歳だった。ウィキペディアには実際に顔を合わせた時、《ペドロは年上妻の肖像画とのあまりの違いに落胆をあらわにした。彼女ははじめ夫から見下されていた。ペドロは彼女と初めて会ったとき、背が低く、弱々しくて不美人なテレザ・クリスティーナを見て失望し、結婚をとりやめようとしたのである》。
 そんな最初の悪印象にもかかわらず、子供を4人もうけた。皇后はまれにみるほど愛情深く、思いやりと文化的素養のある女性だった。嫁入りにあたって大量の貴重書に加えて、芸術家・音楽家・学者・植物学者などをブラジルに引き連れてきていた。つまり皇后のおかげで、リオには宮廷文化の薫りが残った。

ブラジル皇帝の邸宅だった建物であるブラジル国立博物館は、18年9月2日に発生した火災で9割が燃えてしまった(Felipe Milanez)

ブラジル皇帝の邸宅だった建物であるブラジル国立博物館は、18年9月2日に発生した火災で9割が燃えてしまった(Felipe Milanez)

 1889年に軍事クーデターが起きて皇帝一家が急きょ欧州に亡命した時、集めた芸術品や蔵書、貴重品は持っていくことが出来ず、彼らが住んでいた王宮に残された。皇帝一家が住んでいた王宮は、貴重な家宝類と共にのちにリオ国立博物館になった。図書類はリオ国立図書館に寄贈された。そんな国立博物館の建物が、昨年9月2日夜に発生した火災で全焼してしまった訳だ。
 でも、国立図書館に移した蔵書の方は無事だった。だからテレザ皇后が残したコレクションからキリシタン版『日葡辞書』が、奇しくも博物館火災と同じ、昨年9月に発見された。

慶長遣欧使節団派遣のきっかけは大津波?

 一方、宮城県石巻市には「サン・ファン館」博物館がある。遣欧使節団の船名をとっており、使節団の歴史を展示している施設だ。そのサイトを見てみて驚いた。
 東日本大震災のちょうど400年前の1611年12月には、東日本大震災による大津波と同規模の「慶長大津波」が仙台藩を襲った記録が残されているという。伊達政宗が徳川家康に出した報告『駿府記』には、この震災で仙台領だけで5千人を超える死者を出したと書かれているという。
 驚くのはサイトの次の記述だ。《この慶長大津波からわずか2週間後、政宗は造船と慶長使節派遣の構想を明らかにし、その2年後、サン・ファン・バウティスタは月浦からヨーロッパへ向かって出帆しました。
 このような事実を踏まえ、改めて慶長使節派遣の意義を問い直してみたとき、この計画には大きな災害から立ち直るための強い意志が託されていたのではないか、という新しい解釈が生まれます。
 政宗と常長が目指した海外との貿易は、物資の流通のみで終わるのではなく、文化や技術・情報・人の交流ももたらしてくれます。そしてそれは復興の基盤になりえます。
 私たちが経験した東日本大震災のちょうど400年前、まさに復興の最中に、慶長遣欧使節は大航海時代に打って出たのです。使節を派遣した伊達政宗は、震災によって大きく傷ついた仙台藩を、より良い国に発展させようとしたのではないでしょうか》
 大津波からの仙台藩復興のために外国貿易という新方針を打ち出した。まさにピンチをチャンスに変えようとした発想だった。

「鎖国を反省する」視点

 日本はキリスト教を恐れる余り、グローバリゼーションという大波に鎖国の防波堤を築いて、島国として引きこもった。
 その結果、1613年には黒船建造技術をもっていたのに、約250年後の1853年にペリー率いる米国の黒船艦隊がやってきた時は国を挙げた大騒動になった。
 日本は鎖国をしたことで多くの可能性を失った。海外在住日本人としては、日本史を見る際に「鎖国を反省する」視点が必要な気がする。
 ウィキペディア「日本人町」項をみて、ドキッとした。タイのアユタヤ日本人町から始まるその記述の、関連写真はサンパウロ市のリベルダーデ広場だった。つまり、影も形もなくなったアユタヤ日本人町から、リベルダーデまでが歴史認識上では繋がっている。
 日本は通商面では開国したが、外国に出た日本人は日本からは忘れ去られ、日本史からは外されるという形で、精神面では今も世界と断絶している。お金やモノ、人の動きはグローバル化したが精神面は鎖国したままに見える。なぜそうなのか。
 『支倉常長異聞』(中丸明、宝島社、1994年)の次のような一節を読んで考えさせられた。
 《家康は一方で強烈な禁教を推し進めながらも、西欧への強い関心を抱いていた。このことは、正宗などよりはるかに強かったであろうと、わたしは思っている。
 徳川幕府は、しかし、秀忠、家光の代になると、ただ幕威を維持すること以外は考えようともしない体質になり、切支丹退治だけが自己目的になってしまった。
 この結果、世界について必要な知識を欠き、あとはただオランダの口車に乗せられたまま、明治を迎えてしまった。日本を鎖国させたのは、オランダの国策であろうか。
 鎖国によって失ったものは少なくない。
 しかし、そのことによって得たものも少なからずある。
 というのは、スペインやポルトガルが憑かれたように海に飛び出して行って、その結果、農業は荒廃し、人材を失い、衰運をたどったように、もし、十七世紀の日本が海に乗り出して行ったら、東南アジアや南米の地で、必ず紛争の種をまき散らしたにちがいない。武士たちは絶えず戦争に動員され、明治の近代化を支えた知識層を育てることもかなわなかったであろう》(269ページ)
 コラム子は、そうは思わない。《東南アジアや南米の地で、必ず紛争の種をまき散らしたにちがいない》という発想自体が、すでに内向きだ。
 江戸時代の鎖国は文化醸成という意味で大きな意味があったことは認めるが、日本人の意識を内向きにしてしまった副作用は否めない。
 日本人がこの時代から外国とのタフな政治交渉に慣れていたら、第2次世界大戦を起こさなかった可能性が高いと思うからだ。相手からの影響をある程度受け入れながらも、自分の欲するところを相手にしっかりと受け入れさせるのが交渉であり、それを外国相手に繰り返すことで国際感覚が育つ。
 17世紀から東南アジアをはじめ、南北アメリカ大陸に日本人町を作っていたら、たしかに小競り合いは繰り返していたかもしれない。でも、その小競り合いの中でもっと国際情勢に熟知して外交手腕を研き、日本人全体が外向きで世界情勢に敏感になり、第2次世界大戦のような壊滅的な争いは起こさなかったのではないか。(深)