島から大陸をめざして=在米 村松義夫(JAC日米農業コンサルタント)=第2号

杉野忠夫氏(『東京農大卒業生アマゾン移住50周年記念誌』同農大会北伯分会刊、2008年)

杉野忠夫氏(『東京農大卒業生アマゾン移住50周年記念誌』同農大会北伯分会刊、2008年)

 戦前、満蒙開拓は当時の農相石黒忠徳の下で企画され、杉野忠夫氏も加わり、満州開拓での農業は大きな成果を挙げ、日本の食糧基地として重要な役割を果していた。
 しかし終戦と同時にソ連軍による予期せぬ侵略で全てを失い、同時に大勢の犠牲者を出し、満州開拓は終った。東京農業大学には戦前植民部があり、大勢の卒業生が満州の開拓に向かった。そして一般からの入植者共々多くの犠牲者を出した。
 戦後GHQは暫くの間、海外への開拓殖民事業は認めなかった。1956年、東京農業大学の千葉三郎学長は政府の海外移住政策が盛んになりつつある事を受け、文部省に農業拓殖学科の申請をした。文部省の担当課長は戦前の拓殖事業で関係のあった方で、杉野忠夫氏が就任することで許可を出した。
 杉野忠夫氏は満蒙開拓が日本の植民地としての開拓であった反省から、この要請に「高度な農業の技術を身につけた農学士を育て、日本から平和の大使となって世界の未開発地域に出かけ、そこに住む人々と共存共栄の村造りに専念し、飢餓と貧困を世界から無くすこと」を教育の根幹として学科長に就任し、農業拓殖学科が千葉県の茂原分校で出発した。
 我々の入学時、1960年4月は既に茂原分校が閉鎖され、東京の世田谷の本校であった。満蒙開拓で満州生まれの者、杉野教授と関係のある者の子弟、また教授の著書に影響された者、農大の農業拓殖活動を知り興味有る者、先輩諸氏からの推薦で受験した者等が全国から100名が集った。
 教授の講義は毎回胸躍るもので、他学科からも噂を聞いて聴講する学生で教室は常に満杯であった。満蒙開拓事業の成果と反省、世界の未開発地域への農業開拓事業、既に南米諸国へ移住した先輩諸氏からの手紙の朗読解説を主体とした教育であり、世界から飢餓と貧困を無くすためには食糧生産が充分行き渡ることで争いは無くなると講義が続いた。
 また教授の目指す開拓者の条件は、「ゴリラの如く逞しく、神の如く愛と英知に満ちた人間像たらん」であり、ゴリラの体作りは茂原農場や、その後、厚木の山中に大きな農地を確保し、我々が先駆者となって農場作りの開拓で培われた。愛と英知は難しいものだった。
 大学では「海外移住研究部」の部員に所属すると同時に、自動的に「日本学生移住連盟」と言う組織に所属する事になった。この組織は「学移連」と省略され、杉野教授の発案で全国の大学の移住に関連したクラブ員で組織されていた。

両手に大根をもって「青山ほとり」を歌う東京農業大学全学応援団(山口元久撮影、From Wikimedia Commons)

両手に大根をもって「青山ほとり」を歌う東京農業大学全学応援団(山口元久撮影、From Wikimedia Commons)

 ブラジル丸、アルゼンチナ丸等で南米に出発する先輩達を横浜の港に応援団と一緒に出かけ、校歌と大根を持って「青山ほとり」で壮行した。
 一般の移住者や報道関係者が大勢見送りに集まり、横浜の桟橋は、「祝○○君渡伯」の垂れ幕や、多量のテープが飛び交い、移住事業の盛んな状況の時代であった。(第3号に続く)