臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(110)

 その卑しい生き方がわが国の労働者と摩擦を引き起こしている。利己主義、不誠実、不従順な生活がブラジルの最も肥沃な地域に民族的、経済的、文化的な異分子集団を形成している。同化させる手段など皆無といえる。日本人の肌の色、特性、生活概念、実利主義を変えることのできるものはいないだろう」
 歴史家アルシール・レニャーロは
「ここに記された文章を見ると、人種差別が明確に現れている。単純な思考、不安感、嫌悪感、不寛容、悪意、特に無知さが浮き彫りにされている。だが、どんな手段をとろうと、日本人を排斥しなければならないという考えが計算づくで、しかも、嫌悪感を引き起こさせる方法で書かれていることは明確だ」
 農園で行きかう人たち、とくに、町の朝市に野菜を売りに出かける日に会う人の中で人種差別をする人に対し、正輝は皮肉っぽく、すこし偏見をもった態度で反発した。
「Burajireeru tudu bobo(ブラジル人はみんなばかだ)」と耳に入る話しを聞き流した。

 人種問題に関する提案は国会で制度としては否決されたが、国粋主義的な具体的対策、たとえば、外国人の自由を制限する方策などがヴァルガス政権、特に独裁主義の新国家体制(1937─1945)の間に施行された。新国家体制の成立後、間もなく発布された政令により国家教育制度に従うことが義務付けられ、学校は国営化するか、その門を閉ざすかのどちらかの道を選ぶしかなかった。
 国営化は国家初等教育委員会にゆだねられた。ブラジル人にとって、それはごく当たり前のことにとれた。しかし、日本移民にとっては致命的打撃といえた。なぜなら、日本語学校はブラジルで日本語を教え、日本文化を伝える最も大切な教育機関で、敬意の対象だったのだ。そこで文化、習慣、ことに日本人としての道徳観を子弟に身に付けさせようとした。日本学校こそ、彼らが日本からかかえてきた何よりも大切な大和魂を、これから先の世代に継がせえるための教育機関だったのだ。
 また、移民たちは日本語学校の校舎を公の儀式を行う場所としていた。天長節を祝うのも学校を使った。式場には昭和天皇のご真影が掲げられ、それに向ってうやうやしく頭を下げた。また、日本学校には1890年、明治天皇が教育に関して発布した教育勅語が公式な儀式の日に朗読された。その目的は天皇の神聖と日本帝国の永遠の繁栄を認識させることにあった。
 このように日本人にとって、新国家体制の法令は単なる外国語教育の禁止ではなかった。日本移民にとって、それは習慣や生き方に対する冒涜行為ともいえた。日本人移民が最も重きを置く教育的実権、文化、政治的実権を放棄させるというものだった。
 この法令の適用により、サンパウロ州の植民地に存在する200以上の日本学校が閉校の憂き目を見、不法行為にたずさわる者として、多くの教師が訴えられた。また、これは農業以外の仕事にたずさわる日本移民へ活動危機のはじまりにすぎなかった。
 1938年4月には外国人の政治活動が禁止された。
 「協会、財団、クラブ、支社、ただその主義を普及させるだけのものであったとしても政党に属する支部の設置が禁止された。同じように、党に属することを示す標章のついた旗、看板、シンボル、ユニフォームの使用も禁止。そして、公衆の場での集会、私的な集まり、たとえば、行進、市民集会、会合、そして、雑誌、新聞などの情報機関の維持、党派の思想を普及するための記事、インタヴュー、講演、演説も禁止された」