臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(112)

 外交面で、日本は国際連盟を脱退して以来、孤立状態にあり、同盟国を必要としていた。共産主義に異議をとなえるヒットラーの国ドイツとロシアの地に侵入したい日本が接近した。そして、1938年その交渉が始まった。ドイツのヨーロッパ大陸の進展が日本を勇気づけた。フランス、英国、オランダの強国がドイツに負けそうになり、アジアの植民地が維持できなくなり、そこに日本が侵入できる道を開けた。1940年9月日独伊三国同盟条約が成立した。
 ところが、日本が考えたように事は運ばれなかった。英国はドイツに破られることはなかった。そして、ヒットラー軍は1941年6月ロシアに攻め込んだが、その攻撃は日本に事前に知らされなかったのだ。
 それでも、日本はアジアの進出をやめなかった。フランス政府は同国が統治権を維持することを条件に日本軍の軍事基地とインドシナ通過を許可した。そこを通って、大勢の軍隊が南方に前進し、新しい土地を占領することができた。ドイツによるロシア侵攻で、ロシア政府は侵入を妨ぎ、国土から敵を追い払うことのほうが先決問題とみて、満州周辺の軍をそちらに回すことになり、その付近の軍隊が減少するという結果となった。それが北方に進む日本軍の道を開いた。
 1940年末から1941年の初め「どちらの道をとるか」が日本政府の課題だった。アメリカの動きに左右される。北米に戦う意識があるかないかを知ることが先決問題なのだ。ワシントンから憂慮すべき情報を受けていた。中国での日本の軍事行動がもとで、1939年、アメリカは日本との貿易協定の再締結を結ばず、翌年はこれを破棄するというものだった。
 1940年には北米政府は日本製品の輸入を削減し、日本経済や軍事政策に欠かすことのできない石油、鉄、鋼鉄などの必需品の輸出を停止した。1941年日本が南インドシナを占領したとき、北米政府は米国内の日本資金を凍結し、2ヵ国の商取引は終局をむかえた。
 アメリカは日本がフィリピンや中国などの隣国の独立と国土保全の保証を認めることを正式に受け入れ、平和的政策のみを採り、日本の管理下にある地域の経済に平等と機会を与えるよう要求した。それに対し日本は平和的対策をとり、もし、アメリカが中国の条件を受け入れるように納得し、そのうえ必需品の石油の導入をつづけさえすれば、危機は免れると答えた。それは聞く耳持たず同士の会話で、解決策などまったくなかったのだ。
 軍人閣僚たちはアメリカとの軍事攻勢は避けられなく、軍需品の現状と気象の予測の二つが条件にかなっていれば問題はない。もし、攻撃を始めるのなら、1941年12月以降では遅すぎるという考えだった。だが、内閣の文官閣僚たちは敵対行為から攻撃開始についてそうは考えなかった。軍人閣僚と文民閣僚の意見対立をおさえきれず、1941年10月、文民首相、近衛文麿内閣は解散した。そして、陸軍官房長官の東条英機が次期首相となった。新首相は軍人たちから強い支持を受けていた。英国の歴史家W・G・ビスレーは次のように書き残している。
「何週かつづいた内閣討議に出席した元陸軍官房長官だった軍務大臣は、堅固たる軍人意識を持つ権威主義の男で、総司令官としては、最適の軍人だといえる。『カミソリ』という異名のとおり、どんな反対意見にも情け容赦なくたち向かい、『平和の救い主』というより、『武士の総大将』と呼ばれるのにふさわしい人物だ。それゆえ、彼が首相に選ばれたことは文民政権が軍部を譲歩させ抑制するという試みがむだにおわり、戦争にむかって、国家が軍事閣僚による政策の第一歩を踏み出したといえる」