島から大陸をめざして=在米 村松義夫(JAC日米農業コンサルタント)=第6号

「農業は農業企業成り」を示す大規模な農地(本人提供)

「農業は農業企業成り」を示す大規模な農地(本人提供)

 「米国農業視察」事業は順調に継続し、全国のJA(農協)組織、日園連組織、全酪連・養豚・養鶏組合、専業農家組織、都道府県の農業関連部署、試験場、農地委員会、農水省や農水議員等から幅広い人々の農業視察を受け入れた。
 中でも農畜産物、食品の流通のA―COOPを始め、業界大手流通組織からの店舗視察も受け入れ、現地の有料店舗視察や、大学の試験場訪問や講義受講等の手配もして視察を継続した。
 日米の農畜産物自由化交渉時にも、米国からの依頼で生産農場や集荷出荷場への視察を手伝った。柑橘や落葉果樹の自由化が始まり、牛肉の関税問題、カリフォルニア米の枠内での輸出等会議にも立会った。
 そして米国政府は品目毎に農畜産物の枠内、関税率そして自由化を求め続けた。日本にとっては自動車や鉄鋼、電化製品をはじめ、工業製品の輸出が日本経済を支えている関係上、どうしても米国政府の言い分を飲まされる。自民党与党政権にとってはJA組織の大きな農村票田を背後に控え交渉は長期化していった。その間、農村は次第に高齢化し、後継者の離農が続き過疎化に向かっていった。
 そんな中でもカリフォルニア州は350種類の農畜産物生産州で、米国第一位の農業所得を確保。また中西部諸州は穀物と畜産が主体で、この地区も米国第1位の生産を上げていた。これら2地区が日米農業問題に大きな関心を示し、政府に日本の門戸を開放させる圧力をかけていた。
 日本の農業は米を主力とした農業であるため、カリフォルニア州の日本米に似た品種の輸出には大きな関心と脅威を持って大勢が視察に訪れたが、日本米と比較し遥かに劣る品質や生産面積に限りある実態を視察し安堵していた。青森県がリンゴの自由化に驚異を持っていたが、実際にワシントン州の産地視察で、その品種や品質をみて比較できないことが解りこれまた安心して帰っていった。
 日本の農業は後継者不足で減少し続け、農村は次第に過疎化し休耕農地が増えている。帰国し地方を訪問すると、新幹線の車窓から雑草が生い茂る田畑があちこちに見られるようになった。それでも能力のある後継者や農業法人が規模拡大し、品質の高い農畜産物を生産し海外市場へまで出荷するようになっている。
 彼等は自由化を何ら恐れていない。かえって海外市場への進出がより安易になると言う。確かに自給率は減少し、政府も農政の見直しを繰り返しているが、自給率は上昇しない。特に山間地における農業は困難である。
 農業視察事業も1990年に入ると、日本からの視察に大きな変化が起きていた。日本経済に不安定な状況が現れ、ついにバブル崩壊となり、団体による視察が激減した。変わって個人の視察が増え、専門分野での視察や試験研究機関への訪問に集中していった。
 インターネットの普及で先進的農業経営者はこれを活用し、その現場の視察が多くなり、我々も真剣に取り組んだ。(第7号に続く)