島から大陸をめざして=在米 村松義夫(JAC日米農業コンサルタント)=第8号

静岡県掛川市長、大日本報徳舎の舎長だった榛村純一さん(村松さん提供)

静岡県掛川市長、大日本報徳舎の舎長だった榛村純一さん(村松さん提供)

 静岡県掛川市の榛村純一市長は、7期在任中に大きなプロジェクトをつぎづぎに成し遂げられた。生涯学習都市宣言、生涯学習センター開校、新幹線掛川駅開駅、山之内一豊の掛川城建設、東名インター開設、市役所の新築、駅前商店街の改築、緑茶産地センター開設、逆川の改修工事、エコポリス工業団地開設、ごみ焼却設備と周辺公園新設、静岡富士山空港開設、スローライフ都市宣言、K―ECOセンター(オレゴン生涯学習村)開設、その他多くの事業を地元にもたらした。
 また国に対しては文部省へ「生涯学習制度」を奨励し、全国へ啓蒙し同時に地方分権を訴えて政権内に大きな影響を与えた。
 2006年7期勤めた榛村市長は、8期目を後継者にと立候補を断念したが、「もう一期だけ」と願う周囲の声に押され立候補した。誰もが無投票と信じていたが、元国会議員が立候補を表明し、芸能人を連れての選挙戦を展開。その戦術に田舎の大勢が群がった。
 榛村現職市長は無投票と思っていたので、派手な選挙戦はしないで教育事業を説いて市内を巡回した。しかし僅かの差でこの選挙上手な元国会議員に負けた。また、この選挙は周辺の3町村との合併もあって広い地盤を持っていた元国会議員に票が流れ、現役市長は掛川市だけの地盤であった事も敗因につながった。
 新市長が誕生するとつぎづぎに新規事業が打ち出され、私の関係するK―ECOの事業は売却することを命ぜられた。長年そして多くの人々が訪れ、現地で生の研修を受けたグローバル教育事業は地域のバス会社への売却で総て終了した。
 ただし、姉妹都市との交流は引き続き継続することができ、両市民の交流は継続でき安堵した。その後、新市長の運営方針に市民は不信感を抱き、一部でリコールに動き出したが、1期四年を継続した。だが次回の選挙で落選した。
 その後、榛村さんの意思を受け継いだリーダーが現在市の舵を取っている。榛村さんは、その後に「大日本報徳舎」舎長となり、報徳の教えを全国に広める運動をされていた。数多くの著書を出版し、最後は『報徳ライフのすすめ-その2-』を出版した直後、他界された。
 多くの市民は彼の死を悲しみ、多くの業績を残してくれたことを後世に伝えるため、市役所前に銅像を建て長くその名誉を讃えた。
 米国農業視察事業は全国に拡大し、JA観光は組織のグループを集客し、JTBやその他の旅行社も、行政や農業委員会等の組織からの依頼で我が社に企画から実施案内要請が続いた。特に多かったのは北海道のホクレンを始め、十勝農協連等の視察グループであった。また北海道各地へ出張し講演活動もおこなった。
 新潟県の農協連からは、米の視察で県内総ての単協の長や役員を、米どころのアーカンサス州やカリフォルニア州内を案内して廻った。自由化に向けての対抗策に熱が入っていた時代であった。(第9号に続く)