臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(125)

 また、もう一方の西部攻撃隊はニューギニア島の南東に向かった。そこは2年ほど前、珊瑚海、ガダルカナル戦で日本軍がアメリカ軍を破ったところだ。アメリカ海軍はギルバート諸島の西から南東‐北西に進路をとり迅速に島や重要な基地を次々占領していくという飛び石作戦を行った。
 1944年5月、この攻撃隊はニューギニア島の北西を占領しフィリピンに向かった。一方、東軍は10月にマリアナ諸島を完全に占領したあと、日本列島の攻撃準備に入った。西軍はフィリピンに到着し、日本海軍に多大な損失を与えた。その月、アメリカ軍はレイテ島に上陸。その3ヶ月後の1945年1月、マニラに到着した。
 同じころ、東軍は日本列島を攻撃するための重要基地となる硫黄島を占領した。航空母艦から飛び立つ飛行機の空襲、そして硫黄島の占領により、日本最南の沖縄をはじめ、四国、九州はては本州の主要工業地帯、軍事基地が空襲を受けた。本州には東京をはじめ、大阪、京都、神戸、広島が存在するのだ。
 1945年3月終わりには東軍、西軍が共同作戦で沖縄の襲撃を開始しようとしていた。

 マッシャードス区に住む保久原家の家族は増えていった。1934年から偶数の年に房子は子どもを産んでいたが、1944年11月5日、女の子をもうけた。ちょうどアメリカ軍がフィリピンで日本海軍を破り、諸島を侵略しようとしている時期だった。
 子どもはヨシコと名付けられた。アララクァーラでパステースの店をもっていた平良の未亡人、パステルヤー ヌ オバーの娘のうちのひとりの名前をもらったのだった。平良未亡人にはウサグァーの死亡申告をした仲宗根源佐の嫁マリアのほかに、ヨシコという娘がいた。もうひとりのヨネコは津波元一の息子マルチニョともうすぐ結婚することになっていた。
 彼は正輝の親友の津波元一の息子の一人だった。アララクアーラの沖縄県人どうしはこうした婚姻によって結びつきを強くしていった。正輝と房子の長男ニーチャンはすでに10歳になっていた。次男のアキミツは8歳だった。セイキはまもなく7歳になる。
 三人はもう、畑仕事を手伝っていた。「Purishiza pushaa inshaada de pikeno,para apurendee turabaio na roosa.(小さいときから鍬をすいて、畑仕事をおぼえろ)」と正輝はへたなポルトガル語で息子たちにいった。農家の男子は幼いころから激しい農作業を体で覚えるようしむけていた。
 両親を目の前にして、子どもたちは懸命に働いた。野菜栽培には農園の灌漑システムで水を送るほかに、毎日じょうろで水かけする必要があった。
 じょうろは子どもらの体の大きさで、前年、家族の一員に加わったセーキは以前から農作業をてつだっていた兄たちより幼く、じょうろの大きさがこたえた。じょうろによる水かけは日がのぼる以前にしなくてはならなかった。強い日光で水が温まり作物をいためたり、育ち盛りの葉を焼いてしまうからだ。葉がやけたり、傷ついた野菜は値が落ちた。マサユキたち3兄弟は日が出る前にじょうろに水をくみ、野菜畑まで運び、水をまかなければならなかった。
 そのあと、決まった時間に野菜畑の灌水システムの水を下の野菜畑に移す仕事があった。それだけで終わるわけではない。各野菜畑をくまなく見回り、雑草を抜かなければならなかった。全部の作業がおわるころには畑はみごとに手入れされて