ブラジル五輪名選手として殿堂入りした戦後移民

手形をとる石井さん

 「東京五輪(1964年)の日本代表に入りたくて練習を積んできたのに、三次予選で岡野功に負けた。本当に悔しかった。それで一端は柔道を諦めて、ブラジルでファゼンデイロ(大農場主)になろうと思って、早稲田大学の卒業式の翌日、移民船に乗ってやってきた」―五輪名選手殿堂入りが決まり、20日に手形をとった際、戦後移民の石井千秋さん(77、帰化人、栃木県)は、そう半世紀前の出来事を生々しく振りかえった。
 岡野功は東京五輪で、男子中量級の金メダリストになった実力者。岡野は翌65年の世界選手権でも優勝を決め、21歳にして柔道中量級における世界のトップ選手に。さらに67年には全日本選手権で優勝し、中量級選手としては当時史上初となる柔道三冠を獲得。マスコミから「昭和の三四郎」と称された天才児だ。
 それに競り負けたとしても、石井さんは十分に強かった。だから着伯後すぐに全伯柔道大会に誘われて出場し、いきなり優勝。以後、ブラジルでは負け知らずとなった。
 「でもね、来伯最初の4、5年荒れていたんだ」―2014年4月、石井さんが『ブラジル柔道のパイオニア』を出版した際に取材し、そう述懐していたのを思い出す。
 「あの頃、警察官をぶん投げて留置所に入れられたり、酒飲んじゃ暴れてばっかりだった。何度も銃を突き付けられた。今でも、あの頃のことをたまに思い出しては我ながら、よく生きていたな、と冷や汗かくよ。父は7回ブラジルに来たが、よく『お前の話を聞くと、戦時中の南洋を思い出す』と言っていた。そんなだったけど、ハングリー精神には事欠かなかった」としみじみ語っていた。
 いったんは諦めた柔道の道。だが、石井さんは「夢をもう一度」と思いなおした。柔道一直線に軌道修正したのは、結婚が契機だった。「女房が来る前は酷かった」とも。「俺に勝ったら5千ドルくれてやる!」と触れ回り、1年半の間、南米の格闘技の道場、ボクシング、プロレス選手などを相手に、道場破りのような武者修行をして回った。そのときにグレイシー柔術とも出会い、当時、日本では忘れられていた古武道由来の寝技の数々を体得した。
 石井は「ペドロにも教わったよ」と振りかえる。ペドロとは、柔術家ペドロ・エメテリオ氏。グレイシー柔術の創設者であるカルロス・グレイシーの一番弟子だ。彼の動きは柔軟性に長け、相手の背後に回って支配する技で有名。動きが柔らかくネバネバして見えるために”キアボ”(オクラ)のあだ名がついたほどだった。
 自分の持てる技は弟子にすべて伝えた。そんな弟子らが次々に大会で好成績を上げる姿をみて、ブラジル国籍がないばかりに自分が参加できないのを不甲斐なく思った。そんな時、当時のブラジル拳闘連盟の一部門で柔道担当のアウグスト・コルデイロ理事から「帰化してブラジル代表にならないか」と口説かれた。ブラジル柔道連盟(CBJ)は書類上、1969年3月に設立したが、ブラジル五輪委員会は認めていなかった。
 当時、日系社会の柔道指導者の大半は「日本で覚えた柔道なら、自分で出場しないでブラジル人に教えるべきだ」と反対したが、石井は帰化して夢を追った。

美空ひばり「柔」と『竜馬がゆく』で気合

1972年ミュンヘン五輪の時の石井選手、手前が岡野監督

 1972年ドイツのミュンヘン五輪の時、ブラジルマスコミは、まさかブラジル柔道がメダルをとるとは思っていなかった。だから、マスコミからまったく相手にされていなかった。
 それどころか、石井によれば「あの時、ヴェージャ誌に変なことを書かれたよ。柔道代表の控室をのぞいてみたら、ポルトガル語もよく分からない変なオリエンタルばかりがいて、ブラジルらしくない奇妙な音楽がかかっていた、ってね」と笑っていた。
 「勝つと思うな、思えば負けよ。負けてもともと、この胸の奥に生きている柔の夢が、一生一度を、一生一度を、待っている」――聞けば、「精神集中のために控室では、美空ひばりの『柔』を繰り返しかけ、気合を入れるために『竜馬がゆく』(司馬遼太郎)を何度も読んでいた」という。まさに移民大国ゆえの〝ブラジル代表〟らしい姿だ。
 当時、ブラジル代表監督は岡野脩平だった。ブラジル講道館柔道有段者会の関根隆範会長によれば、《監督の岡野脩平は北海道釧路出身で中央大学柔道部時代、学生柔道最盛期の中大レギュラー選手として活躍。卒業後大谷重工の労務担当勤務後、28歳でブラジルに渡り、数々の事業を起こす。と同時に、学生柔道で培った講道館柔道を教育的見地から伝達することに努め、戦後においてブラジル柔道の水準を石井とともに急速に向上させた功労者と言われる》(日本ブラジル中央協会機関誌、https://nipo-brasil.org/archives/11892/)。
 2010年に取材した際、代表監督だった岡野さんは、「二人三脚で石井選手をしごいた」と語った。一日に5~6試合も行う五輪では、「準決勝にもなると腕をもんでやろうと思っても、もうガチガチなんです」という。決勝戦まで腕力、握力を持たせるためにはスタミナが勝負だと考え、五輪大会前には稽古の後に10キロの走りこみを行ったという。
 南米武者修行をし、岡野監督に鍛えられた石井は、早稲田時代より一回り大きな柔道家に育っていた。しかも、同大会では、最も金メダルに近いと言われた日本の笹原富美雄が2回戦で敗れる大番狂わせがあった。そこで「もう一人のジャポネース」である石井さんに注目が集まった。
 「ミュンヘンにブラジル代表選手団は155人も参加したが、大半は遊び気分の選手だったな。どうせメダルに手が届くはずないって、最初からあきらめているような。でも俺たちは違った」と石井さん。
 ミュンヘン五輪でブラジル代表が得たメダルはたった二つだ。その一つが石井さん。「あのジャポネースは何者だ?」とブラジル・マスコミが殺到し、一躍ヒーローに祭り上げられた。
 その結果、日系社会も手のひらを返したように大歓迎するようになった。その72年、ようやく正式に「ブラジル柔道連盟」の設立が国から認可され、コルデイロ氏が初代会長に就任した。それが現在の、五輪競技最多メダルを誇る、栄光あるブラジル柔道連盟の発端だ。
 だが石井さんは、辛い思いもした。「あの後、悔しかったよ。日本に行ったら、昔の仲間に『オマエー!』と裏切者扱いされた。『昔俺に投げられたくせに』とか言ってくるから、『いまやってみるか?』と返したよ。たしかに大学時代、俺ぐらいの選手は日本には2、30人はいた。でも俺は東京五輪に選ばれなかった悔しさをバネに、南米で修業を続けたんだ」と思い出す。
 後にも先にも、彼以外に帰化選手で五輪柔道メダルを得た者はいないという。
 日本で〝裏切者〟扱いされた悔しさをバネに、8年間後進を徹底的に鍛えた。70年代、80年代には石井道場の生徒は600人を越え、支部数も6カ所を数えた。
 もともと戦前からのコロニア柔道界の下地がしっかりとあった。その上に、石井さんや岡野さんらブラジル講道館有段者会などの戦後組が近代的な柔道を伝え、ブラジル社会に広めた。その結果、84年ロス五輪で銀1人、銅2人の成績を上げ、以後、毎回メダルをもたらす競技に育った。

柔道が、地に落ちたブラジル五輪委員会立て直し

ブラジル・メディアに次々にインタビューされる石井さん

 一方、ブラジル五輪委員会はラヴァ・ジャット作戦によって、カルロス・アルツール・ヌズマン会長がリオ五輪誘致採決時の票買収容疑で逮捕され、2017年に辞職した。ヌズマン容疑者は、前回の64年東京五輪時のバレーブラジル代表選手の一人で、のちにブラジルバレー連盟の会長を務め、同競技の隆盛と共に1995年に五輪委員会の会長に就任した流れがある。
 ただし、今回の誘致票買収疑惑によって、五輪委員会の評判は地に落ちた。
 しかも、グローボ・エスポルテ電子版7月4日付によれば、リオ五輪時のリオ州知事のセルジオ・カブラル被告は、裁判の中で買収容疑を正式に認める発言をした。カブラル被告は刑事被告として求刑年数が約200年という〝汚職王〟であり、その一部にリオ五輪があったと本人が明らかにした。
 このような流れの中で、いわば〝火中の栗を拾う〟ように、ブラジル五輪委員会の会長職に2017年、現在のパウロ・ワンデルレイ・テイシェイラ氏が就任した。元ブラジル柔道連盟会長だ。五輪委員会会長の右腕と言える専務理事には、92年バルセロナ五輪の柔道金メダリストのロジェリオ・サンパイオ氏が就いた。
 ブラジル講道館柔道有段者会の関根隆範会長は、この動きをこう分析する。「問題のあった五輪委員会を立て直すために、柔道で育てられた人材が投入されたということですね。柔道は単なる技だけでなく、健全なる精神も育てることを重視している。だから汚職で印象が悪化した団体を、『勤勉』『キレイ』なイメージを持つ柔道関係者に任されたのではないでしょうか」。
 関根さんは「つまり、移民が持ち込んだ柔道は、日系子弟への教育をはるかに超えてブラジル社会に広がり、今では柔道人口200万人です。ブラジルの公教育界にも取り入れられ始めており、今では柔道がブラジル・スポーツ界全体の屋台骨を支える存在になりつつあります。来年の東京五輪では、さらに柔道への期待が高まるかもしれません」と胸を張った。

錚々たる五輪名選手の6番目に

歴代のブラジル柔道五輪メダル選手や娘と記念撮影する石井さん

 昨年12月に次の5人がまず殿堂入りに選ばれ、6人目として今回石井さんが選考委員の全会一致で選ばれた。
(1)ジャッキー・シルバ=ビーチ・バレー代表選手。96年アトランタ五輪(金)、79年パン・アメリカン(銅)、95/96年世界サーキット(優勝)、97年ロス世界選手権(優勝)
(2)サンドラ・ピーレス=ビーチ・バレー代表選手。96年アトランタ五輪(金)、00年シドニー五輪(銅)、95/96/03年世界サーキット(優勝)、97年ロス世界選手権(優勝)
(3)トルベン・グラエル=ヨット代表選手、96年アトランタ五輪と04年アテナ五輪(金)、84年ロス五輪(銀)、88年ソウル五輪と00年シドニー五輪(銅)
(4)バンデルレイ・コルデイロ=マラソン代表選手。04年アテネ五輪でトップを快走中、観客に妨害されながらも最後まであきらめずに駆け抜けて銅メダルに輝いた。
(5)オルテンシア=バスケットボール代表選手。96年アトランタ五輪(銀)、91年パン・アメリカン(金)、87年パン・アメリカン(銀)など。
 みな歴代のブラジル五輪選手を代表する錚々たるメンバーであり、その6人目に選ばれた。
 今後は毎年35人の候補をあげ、うち10人を選ぶ。東京五輪に向けて機運を盛り上げる意味で、今年はあと8人選ぶ予定。
 ブラジル柔道のメダルは、日本柔道の勝利でもある。グローバル化する世界において、日本の影響力を強める手段は、アニメや漫画だけではない。200万人の柔道人口は、単なる技の切れだけでなく、規律ある日本的精神を学ぼうとしている。それこそが、今のブラジルに最も必要なものだ。
 来年7月24日に開始する東京2020まで、あとちょうと1年!(深)