臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(128)

 日本政府のプロジェットは「八紘一宇」という名のもとに日本一国が世界を司る。「八紘一宇」が実現した暁には世界に平和をもたらすことを彼らは認識していた。
 グループが手にする情報は軍事政権の公式発表で、太平洋や他の地域の敵軍の勝利や連合軍の進出はすべて隠蔽されていた。だから、彼らが頭にえがく様相は現実と全くかけ離れたものだ。太平洋での激しい戦いがくり広げられ、日本軍に占領されたアジア大陸や列島でアメリカの逆襲を受けることは彼らも予想していた。しかし、大東亜共栄圏のプロジェクトが終局を迎えようとしているとは夢にも思わなかった。
 めずらしいことに、正輝はブラジルの政治にも関心をもっていた。市民集会や政治的な集会があれば、必ず出かけていった。ただ、新国家体制のもとでもあり、そのような集まりはたまにしかなかった。独裁政権のもとで、日本移民は他地方に向うとき、警察発行の通行許可証が必要だった。この許可書は申請した場所だけに通用し、期間が決められていた。正輝はそうした処置を政府のせいにはしなかった。
 また、ヴァルガス独裁政権が日系社会内の日本語による情報、教育、果ては日本語の使用を禁止することで政府を恨むようなことはなかった。今、日本はブラジルの敵国で、そのためにとった手段なのだと自分を納得させた。そして、この処置が日本人、いや日本に影響を及ぼさないことを祈った。ブラジルも日本も戦争以前は敵対関係にあったわけではない。一時的な問題なのだ。したがって、ブラジル政府の抑圧や弾圧を怖れることはないと考えた。
 幼少より階級制度の掟や、目上の人を敬う習慣を身につけた正輝は、日本政府の当局者と同じ様にブラジル政府の当局者に対し敬意を抱いていた。国中どの家にも掲げてある「写真の元帥」だ。彼は警察との摩擦を怖れて義務的にこの写真を居間の壁に飾っていたのではない。警察の目を気にしていたのはたしかだが、日本と同じように、政府当局者に敬意を表していたのだ。
 1943年おわりから1944年はじめ、ヴァルガスがアララクァーラを訪問し市民の前で演説するというニュースが入ったとき、正輝は胸をふるわせ、この歴史的イベントに長男、マサユキを連れていくことにしたのだ。サンパウロ州の奥地のまだあまり名の知られていない町には歴史的出来事といえた。ヴァルガスが何のためにこんなところまでくるのかが、話題となった。ポルトガル慈善病院の神経外科フレデリッコ・マルコ医師への謝恩の訪問だといわれていた。ヴァルガスの頭に打ち込まれたピストルの弾をマルコ医師が除去したというのだが、彼がテロ行為を受けたことはどこにも記されていなかった。しかし、アララクァーラではそういう噂だった。
 訪問の目的は何であれ、町にとっては大行事であることには相違ない。演説はセイス街(正式にはカルロス・ゴメス街だが、だれも知らなかった)とセッテ街(後にクルゼイロ・ド・スールと呼ばれるようになった)の間にあるカマラ広場で行われた。
「ブラジルの労働者諸君!」といういつもの民衆に呼びかける言葉で始まった。正輝がいちばん聞きたかった言葉だ。民衆の心にしみ込んだこの言葉をジェツリオの口から直接聞くことができた。
「ブラジルの労働者諸君!」という言葉は正幸の脳裏にも焼きついた。
「貧しい者の父」と呼よばれるヴァルガスのこの言葉を聞くために、大勢の民衆が彼のまわりに集まってくるのだ。