アマゾン日本人移民90年の歩み=ベレン在住 堤剛太=(5)

田付七太大使(『世界の宝庫アマゾン』藤井卓治著、サンパウロ新聞、1955年)

 アマゾン地方への玄関口と呼ばれる、100万都市パラー州べレン市。アンデス山脈中に端を発するアマゾン河は、東へ一路6500キロの長い行程を経てべレンの北端を通過し、やがて大西洋の河口へとたどり着く。このアマゾン河流域だけでも700万平方キロメートルと、ブラジル国土の56%の面積を占めているのだ。
 この広大なアマゾン地域へ、戦前から戦後にかけて日本からの農業移民が陸続と送り込まれてきた。その数は、1929年の第1回移民から数えて戦前移民が2680名。1953年から始まった戦後移民は6907名の合計9587人となっている。
 従って、本年度(2019年)アマゾン地域日系社会では「アマゾン日本人移民90周年」の記念すべき年を迎えた。
 ブラジルの作家アルベルト・ランジェル(1871年~ 1945年)が、1908年に著したアマゾンを舞台とする短編集の中で、このアマゾン地帯を「緑の地獄(Inferno Verde)」と表現している。90年前のアマゾンと言えば、まさにアルベルトの言う「緑の地獄」そのものであっただろう。それほど辺境の地アマゾンへ当時、どういった事情から日本人移民が送り込まれてきたのだろうか?

▼日本国大使館を訪れた次期州知事

 アマゾンに日本人移民が導入される、その5年前(1924年)の出来事であった。
 当時、リオデジャネイロ州のペトロポリスに在った日本国大使館を一人の人物が訪れ、田付七太大使に面会を求めた。ジオニジオ・アウジエル・ベンテスと名乗ったこの紳士こそ、後に「アマゾン日本人移民の恩人」となる人であった。
 ジオニジオ・ベンテスは、翌年2月1日よりパラー州の州統領としての任務に就く要人であり、これを丁重に迎え入れた田付七太大使はオランダ駐在公使を経てブラジル国での初の日本国大使として、1年前(1923年)の8月16日にリオへ着任していた。
 当時、20万人の人口を持つアマゾン地方の雄都パラー州の時期州統領は田付大使に対し、こんな話を切り出した。
 「パラー州は、アマゾン河流域の広大な面積を持ち、しかも肥沃な土地である。しかし、人口が極めて少なく労働力もなく、開発が大変遅れている。ついては、是非日本人の移民を送ってもらい、パラー州の開発に力を貸して頂きたい。農耕用の土地は、好きなところを幾らでも州側で約束したい」。
 この話を受けた田付大使は、すぐに本省へアマゾン日本人移民の要請話しをつないだ。と、言うのは田付大使がブラジルへ着任した同じ年(1923年)の10月に、排日を目的とした「レイス法案」という移民制限法案が連邦下院へ提出されていたからである。
 田付大使は、ブラジルへの日本人移民を制限するこの法案の提出に憂慮していた。時を同じくして日本人移民を受け入れていた米国でも、移民を制限する動きが見られ1924年には排日法案が米国議会を通過している。
 国内不況、人口過剰、特に農村の窮乏があり移民を奨励していた日本国政府としては、移民受け入れ大国の米国やブラジルが、日本人移民をボイコットする傾向に出てきたことは、実に由々しき事態であった。
 特に、1923年という年は、日本国にとって未曾有の災害である関東大震災に見舞われ、国内の経済は深刻な事態に陥っていたのだ。
 そもそも、ブラジルでの排日法案の根拠は「アジア人(日本人)は、絶対に同化しない」という人種差別であった。しかし、実際に日本人移民を受け入れているサンパウロ州の州議会や農業連合会等は、日本移民の功績を正しく評価し、このレイス法案に反対の立場をとっていた。
 田付大使は、ブラジル国民から日本移民に対する偏見を拭い去るには逆にブラジルの各州へ日本人移民を送り出し、そこで信頼を勝ち得る事がその解決策だと自ら信じていた。
 余談だが、パラー州出身のジオニジオ・ベンテスはリオの医科大学を卒業した医師であった。現在、同名の心臓外科の医師がアドベンチスタ・ベレン病院で働いているが同医師はジオニジオ・ベンテスの孫に当たる。
 ジオニジオ医師と親しい、アマゾニア病院の生田勇治医師の話では、彼は心臓外科医としては、サンパウロまで名が通っているほどの一流の医師だそうだ。日系人で、この医師の手により心臓手術を受けた人は何人も居り、今でもジオニジオ家と日系人との係わり合いはこんな形で続いている。
 日本政府は、アマゾン地方への調査団を鐘紡(鐘淵紡績株式会社)へと依頼した。
 これは、当時の日本政府にアマゾンまで調査団を派遣する経済的な力が不足していた事と、鐘紡はサンパウロ州での綿栽培の調査や企業進出の場合に備えて仲野英夫(後にパラー州カスタニヤールに定住)、若杉駒次郎、杉彦熊等の社員をすでにブラジルへ派遣していた経緯が有ったからだ。
 こうして、鐘紡重役の福原八郎を団長とする総勢9名の第一回アマゾン調査団は、1926年3月20日に横浜港発の太洋丸に乗り込み、一路ニューヨークを目指した。4月10日に、ニューヨークへ到着し、それから8日後にはブラジルへと出発する予定であった。だが、折からのニューヨーク港内での作業員のストライキと、携行荷物のトラブルで予約していた「JUSTIM」号に乗船が叶わず、一行は次の船をさがすまでに1カ月近くも同地で足止めを食らった。
 この間、大使館側では福原調査団を出迎える為にベレンへと出発した。田付大使を筆頭に大使館嘱託の粟津金六、関根軍平海軍武官夫妻、サンパウロ領事館江越信胤農業技師等のメンバーであった。福原一行のベレン港到着予定は、当初5月初頭で有った事から、田付大使らはその日程に合わせて4月17日にリオデジャネイロを出ている。
 ところが、福原団長等が実際に船を調達しニューヨークを出港したのは5月11日に入ってからであった。通常、ニューヨークからベレンまでの航程は12日程度であったが一行が調達した英国の貨物客船デニス号は船足が遅く、19日もかけてようやく5月29日にベレンへとたどり着いた。
 田付大使らは、福原調査団の到着が遅れている間、リオへと引き返さずマナウスを訪問している。これは、当時ベレンからリオまでの交通手段は船便しかなくしかも、リオ=バイアー=レシフェ=モソロ=フォルタレーザ=サンルイス=ベレンと船は各都市へ寄港して行くので、片道11日間も掛かっていたからであった。
 リオへ一旦戻り、また出直すと言う事ができなかったのだ。田付大使一行のマナウス訪問は予定外のスケジュールであったが、エフィジェニオ・デ・サーレス州知事は大使一行を歓迎しこの地でも、「アマゾナス州の開拓の為に日本人移民の派遣」を要請されている。
 大使一行中の粟津金六がこの話を受けて後に、東京の実業家・山西源三郎と組んでアマゾナス州から百万町歩の州有地コンセッション契約を結んでいる。これが、衆議院議員の上塚司と繋がり後の日本高等拓殖学校、アマゾニア産業設立から高拓生のパリンチンス地方への入植開始へと歴史が流れて行くのだ。
 実は、その発端が福原調査団のベレン到着の遅れだったとは意外なものである。福原調査団は、アカラ川流域とその支流のアカラ・ペケーノ川沿岸の土地を移住の適地と選び、この後、1929年からアカラー(現トメアスー)への日本人移民が開始された。

▼アマゾン地方開拓の変遷

 ベレンの町は、マラニョンを占拠していたフランス人を追放したポルトガル軍が余勢をかって1616年に、現在のヴェール・オ・ペーゾ近くの高台に要塞を築いたのが始まりである。それから、60年後の1676年にアマゾン開拓初のヨーロッパ移民であるアソーレス移民50家族234名が、アマゾンの土を踏んでいる。
 ポルトガル領アソーレス島からの男子移民は、軍事訓練を受けており開拓と防衛とを兼ねた移民だった。この為に、1620年から北東伯マラニョン、セアラー等から、南部のサンタカタリーナ、リオ・グランデ・ド・スールまで、ブラジル全土へとこのアソーレス移民が送り込まれている。
 1727年には、軍人フランシスコ・デ・メーロ・パリェッタ軍曹(現在の階級だと少佐)によって、隣国の仏領ギアナから持ち出し禁止のカフェーの苗がベレンへと運び込まれた。アマゾンでのカフェー栽培はこの後、瞬く間にパラー州内で広がり1748年には州内での栽培者は1万7千人にも上っている。ヘンリー・W・ベイツの著した『アマゾン河の博物学者』を読むと1800年代には、アマゾナス州のソリモンエス川やマデイラ川流域でもカフェーが栽培されていた事が記されてある。
 カフェーはその後、適地を求めて、マラニョンからリオデジャネイロ、サンパウロ、パラナへと南下し、やがてカフェー労働者としてヨーロッパ移民や日本人移民が導入されることになるのだ。
 19世紀に入り、ポルトガルやフランス、スペイン、イタリア、ドイツ等からベレン近郊のベネビーデスや、ベレンの対岸にあるオンサ島へヨーロッパ移民達が入植しているが、その結果を出す事ができず後、雲散霧消している。
 19世紀から20世紀に掛けては、ゴム採取労働者たちが大旱魃の東北伯地方から逃れ、大量にパラー州へと移動してきた。その数は、16万人と記録されている。
 こうしたアマゾンでの開拓の歴史の変遷を経てやがて、日本人移民がアマゾンの舞台に登場する訳である。そして、州側の期待に見事に応え、ピメンタ・ド・レイノ(胡椒)とジュート(黄麻)の導入に成功し、ブラジルの主要な輸出産品にまで高めている。(つづく)