遠くが見える視点が欲しい

 小学1年生の国語の教科書に、「みえる みえる」という話がある。熊の兄弟が小高い丘の上のブランコで遊ぶ話で、弟は、丘のふもとの我が家でお母さんがおやつの準備をしているのを見た。だが、兄は、先方にある丘の向こうの海や船が見えたという▼この話は、お母さんが「おやつですよ」と呼び、兄弟揃って丘を下りるという描写で終る。だが、兄弟熊が見たものの違いなどを考えると、ひらがなを学ぶだけの教材にしておくのはもったいないと思う▼椅子の上に乗ると、普段気づかない棚の上の埃が見えるなど、視点の違いで見える事柄や意味合いが変わる事は日常生活でも多い。また、自分の目線でしか物事を見ていないのに、全て知っているかの如く振舞う人も少なくない▼先日も、自分は教育者で経営者と自負する人が、若い部下に踊らされ、倫理観のなさをとがめる事もせず、両方の意味での「未熟さ」を露呈するのを見た。孫悟空が世界の果てに行き着いたと思い、雲間に立つ5本柱の一つに自らの号「斉天大聖」と書き、小便もかけた。ところが、悟空が目を凝らして釈迦の手を見ると、中指に号が書いてあり、その根元には小便の跡。つまり、「世界の果て」だと思っていたのは釈迦の掌の上だったとの話も思い出す▼自分は何でも知っており、全て見えていると思う人程、全体が見えてない事が多い。だが、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という諺やソクラテスの「無知の知」は、何も知らないと自覚し、自分を低くする人こそ、真理を探究する喜びや謙遜を学ぶ事を教えてくれる▼弟熊の見たものは温かく、素晴らしい。だが、最近の出来事からは、より多くの人が、体が大きく、ブランコも大きくこげる兄熊や空を飛ぶ鳥のように高い視点を持つ事をと願わされている。(み)