アマゾン90年目の肖像=「緑の地獄」を「故郷」に=(6)=帰化と62年ぶりの祖国

家に飾られている若き日の山田元さん(2019年7月25日撮影)

 ピメンタ景気によってトメアスー移住地の人々が豊かになった63年、元さんは帰化した。農場では一時期、常時80人を雇用するほどの隆盛を誇った。
 「政治的にも強くなろう」という当時のトメアスー文化協会(現トメアスー文化農業振興協会)の会長、大沼春雄の呼び掛けで、元さんの他にも何人かが帰化した。
 同年、トメアスーの日系人から、初めて沢田ギルベルト脩(ふかし)が郡長になった。元さんより5つ年上の沢田の快挙に期待が高まったが、上手くはいかず、1期で退陣した。
 元さんも、郡会議員選挙に永井昭、藤橋オズワルド隆也(たかや)と共に出馬。見事3人共当選し、69~72年まで郡会議員を4年間務めた。
 元さんは7人の当選者のうち、700以上の最多得票数で当選。「小学校しか出ていない自分がですよ」と感慨深く語る。独学で勉強し日ポ両語をこなす努力家な一面と、その謙虚で思慮深い性格は、周囲にも認められていた。
 郡議になった元さんは教育充実に力を入れ、4つの学校を担当した。「自分の車で色んな物を運んで…ほぼタダ働きの4年間でした。ピメンタのお蔭で金には困らなかったけれど」と苦笑い。一方で父親は喜び、「世のため、人のために犠牲精神を持って働くこと」と応援した。
 郡議を務めた70~72年には、トメアスー総合農業協同組合(CAMTA)の理事長も兼任。しかも当時はベレン事務所勤務とあって、ベレンとの行き来で走り回る超多忙な日々だった。
 「ベレンにセスナで行って帰って、労働者に農業を任せて。あれは参りました。73年に再選したけど勘弁してもらった。それでも82年にもう一度理事長に担ぎ上げられて、務めましたけどね」。
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 80~90年代に経済状況が厳しくなったトメアスーでは、日本へデカセギに行く人が急増した。元さんの息子も日本で働いた。
 元さんは日本に残った姉に会うために、実に62年ぶりに91年に帰国した。2歳の時に移住した元さんにとって、もう覚えてはいない祖国だった。
 その後、愛知県豊橋市で働く息子の工場へ挨拶に行き、「まだ仕事ができそうだから」と見込まれ64歳で就職。3~4カ月間の現場仕事を経て、デカセギブームで訪日するブラジル人労働者の世話役を担った。
 結局、日本で7年間務め、トメアスーに戻った元さん。その間、畑はブラジル人の監督に任せていたが「全然ダメだった。これには相当懲りたよ」と語った。
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 2時間ほどのインタビューが終わり、部屋に飾られていた写真を見せてもらった。額縁に入れ飾られている元さんの写真、家族の写真、ゴルフ等で優勝した時のトロフィーが置かれている。その横に仏壇も置かれていた。厳格な門徒だった父と同じく、元さんも留安山トメアスー本願寺の代表も務めた。
 引退後の今も、町の人は元気に自転車で移動する元さんの姿を見るという。9月7日にサンパウロ市のブラジル日本文化福祉協会で開催される「チャリティーディナーショー」のために来聖する。もちろん、同月12、13両日に開催される「トメアスー日本人移住90周年記念式典」にも出席する予定だ。(つづく、有馬亜季子記者、一部敬称略)

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 山田元さんがベレンに勤務していた頃は、トメアスーまでセスナに乗って45分間で行き来し、その間に群議の会議、CAMTAの会議、教員や資材を車で運ぶなど数々の仕事をこなしていたのだとか。この超多忙さのために農場を自分で管理できず、労働者に任せた結果、100トン採れていたピメンタが50トンに減産したとか。「私がいけないんですよ」と元さんは嘆く。あの時代の強い献身精神を感じるエピソードだ。