西部アマゾン日本人移住90周年記念祭典と「ジャングル祭」=西部アマゾン日伯協会会長 錦戸健

錦戸健会長

 西部アマゾン地域はブラジル北部のアマゾナス州、アクレ州、ロンドニア州そしてロライマ州で構成され、その総面積は日本の国土面積の約6倍を有する広大な地域である。そんな地域に戦前はアマゾナス州のマウエス郡に1929年、そしてパリンチンス郡へ1931年に日本人移住が実施された。
 1953年3月に戦後初のブラジル日本移民としてアマゾナス州へ入植したのがジュート移民である。同年の9月にはアマゾナス州のベラビスタ移住地、1954年9月にはロンドニア州トレーゼ・デ・セッテンブロ移住地、1955年9月にはパラー州ベルテーハ移住地よりロライマ州のタイアーノ移住地及びミランジーニャ移住地へ転住、1958年11月にはアマゾナス州のマナウス市近郊のエフィジェニオ・デ・サーレス移住地、そして1959年6月にはアクレ州キナリー移住地への入植が実施された。
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エフィジェニオ・デ・サーレス一次移民(1958年神戸移住斡旋所にて)

 アマゾナス州都マナウスからアマゾン川を350キロほど下った地点にあるのがマウエス郡だ。ここへの日本人移住企画は、元鐘紡和歌山技師長の大石小作氏がアマゾン調査隊のメンバーとしてマウエスを訪問し、不老長寿の妙薬として名高いグァラナのことを知り、アマゾン興業株式会社を設立してマウエスで農業開発拠点設置の土地移譲契約が締結されたことから始まった。

マウエスに移住した崎山比佐衛氏とその家族ら(1932年)

 マウエスといえば、崎山比佐衛氏もいる。東京に設立した海外植民学校を通して、多くの卒業生を南米に送り出した。校長職を辞した後、崎山氏は32年に分校設立を目指して、家族を引き連れて自らマウエスに入植し、やはりグアラナ栽培を志した。だが開戦直前の41年、67歳でマラリアに倒れた。
 上塚司氏はアマゾナス州政府から100万へクタールの割譲を受け、移民たちの直面する困難を予想し、この野心的プロジェクト遂行のためのメンバーとして19歳から20歳の若者を選び、創立した国士舘高等拓殖学校にて過酷な環境で生き抜くために必要な教育、訓練を受けさせた。1931年に拠点となるヴィラ・アマゾニアへ到着し、農業における様々な試みが施された。
 優先的に研究されたジュートだったが、当初は好結果がみられなかった。だが尾山良太氏がアマゾン気候風土に適合した苗を発見したことによってジュート栽培が軌道に乗り、ゴム景気の衰退で皆無状態にあったアマゾナス州の産業開発に多大に貢献した。
 1953年に始まった戦後移民は農業に従事し、現在においても特に養鶏を中心として「陸の孤島」とも言える200万都市のマナウス市場への生産物供給に貢献している。
 一方、1967年に国策でマナウスに自由貿易港が設立されて、商業及び工業分野でこれまた日系商社及び日本の進出企業が経済発展並びに雇用の増加にも貢献している。
 上記に掲げたように再三に亘って現地経済発展に貢献していることから、当地のブラジル人は日系人に対して全幅の信頼を寄せている。
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 西部アマゾン日本人移住90周年記念祭典実行委員会を組織するにあたり、世代も一世から二、三世へのバトンタッチが余儀なくされている現状を踏まえて、次世代の新たなアイデアに基づき検討し、また厚い信頼を寄せて称えてくれる現地ブラジル社会の日本文化愛好家の要望も受け入れて試みたのがこの「ジャングル祭」だ。
 今後の日系社会を担う新世代と、現在の日系社会を支える幹部との新旧交代を促すに相応しい催しであったと思っている。そして「ジャングル祭」が今回だけではなく、今後もマナウス市の年間行事として定着し、日本人アマゾン移住100周年記念祭典を視野において、更なる日系社会の存在をアピールする要素となることを期待している。