臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(153)

 DOPSについた次の朝、身分証明と身上鑑定のため三階によばれた。姓名、両親の名前、生年月日、既婚、未婚の身分、職業、国籍、出生地、在伯期間、学歴、住所、検挙日、検挙の理由、宗教などが確認され、指紋がとられた。
 調書内容のほとんどが独裁政治の新国家体制下に発布された1938年6月12日の法令第554条に基づくものだった。この法令は外国人を国外追放するために警察が行うべき処置を明示している。国外追放者は州警察検査局で鑑定・確認され、写真を撮られた。国外追放は内務省と法務省が決定権限を有し、追放者の指紋が押された犯罪カードがだされる。
 カードは警察がふだん使っているものだ。必要事項をかきたすスペースがあったが、係り官は検挙者に質問することもなく、身分証明のスペースにただただ機械的に書きこんだ。検挙の理由は「合法的」、宗教欄は「仏教」。警察には正輝はウチマンチュ、つまり沖縄人だから、当然「仏教」と書かれた。
 もう一枚のカードには「肌の色、その他」という欄があり、肌、髪の毛、髭、眉毛、目の色、そして、身長、あざ、傷跡、入れ墨などが記入された。また、「その他」という欄には検挙、訴訟、判決、前科、最後の5年間の住所が書かれた。カードの最後には、真正であることを保証するサインをし、最後に両手の指の指紋がとられた。
 調べをおえた臣道聯盟会員とみなされた者たちはもとのDOPSの監獄にもどされた。そこで、今度はカルドーゾ所長の取り調べを待った。たったひとりの署長の調べを受けるには、容疑者の数が多すぎたから、書類審査を受けたほとんどのものが何日も個別の調査を待たなければならなかった。20人が入れる四つの大きな牢獄と、独房室が二つあったが入りきれなかった。大多数はDPOSからあまり遠くないルス公園の反対側、チラデンテス大通りにある「未決監」に送られた。
 1852年5月7日にチラデンテス大通りに創立された「矯正施設」という名のこの建物は何度も改造され、1938年、「未決監」となった。リベイロ・デ・リーマ街からはじまりフェルナンド・プレステス広場でおわる。大きな一角の半分を占めている。
 興味深いことに、広場の反対側はあの有名なもと、サンパウロ工科大学があったが、大学は数年まえに、現在のサンパウロ大学都市に移された。チラデンテス大通りに面した未決監の入り口は堂々とした正門で人目につく。「地獄への扉」という名で知られていた。建設当時、まわりに建物が少なかったので、サンパウロの北部を示す目印となっていた。大通りの反対側の前にノッサ・セニョーラ・ダ・ルス修道院がある。つまり、未決監は大学と修道院に囲まれているのだ。時とともに、保安を理由に、未決監の周りはさまざまな警察関係の、ことに公安警察部門の集合地となった。修道院のとなりには、サンパウロ州軍警察の歩兵襲撃隊本部が設置された。
 臣道聯盟の会員の疑いのあるものはここから10人ぐらいずつジェネラル・オゾーリオ広場の赤レンガの館に連れて行かれ、そこで、秘密警察の署長の調べを受けるために待たされ、全員の証言が終ると、もとの留置所に戻された。
 法令554号の「訴訟書」作成ももうひとつの義務といえた。法令により国外追放者は「当該機関は訴訟書に基づき国外追放を施行する」という判決を受けた。