県連故郷巡りアマゾン=90周年に沸く「緑の天国」=(5)=戦争を語る井上さん、平田さん

会館での集合写真

 「移住」と言えば、普通は若い頃に船で渡ってきた青年を想像する。だがカスタニャール日伯文化協会で正面に座っていた井上作義さんは、「わしは50歳で移住してきたんだ」と珍しい事情を語りはじめた。
 井上さんは、妻と2人の子どもを連れて1980年に飛行機で移住した。「木工所を経営していたけど、持病の喘息が酷く、主治医から『今の仕事では一生治らないから空気の良い所に行け』と言われて、アマゾン行きを決めた。賛同してくれたのは彼(主治医)だけだった。他の人には『バカタレが』と止められたよ」と笑う。
 その年で渡伯して慣れるまでが大変だっただろうと思い、尋ねると、「全然大変じゃない。ただ平々凡々生きてます」と即答した。「ポルトガル語は分からないけど、特に苦労はない。貧乏だけしていますが」とあっけらかんとした様子。今は日本で納めていた年金で細々と暮らせており、「趣味のゲートボールとカラオケに興じて楽しく暮らしている」という。
 むしろ大変だったのは、戦中の日本での暮らしだった。「15歳で海軍兵に志願し、最も危ない魚雷艇に乗った。敵の500メートルまで近づかないと当たらないから、特攻隊みたいなもんだった」。

井上作義さん、神立守さん、平田照行さん

 井上さんは無事に帰還したが、一緒にいた仲間16人は亡くなった。「死んだのは魚雷艇の燃料を飲んだから。あの頃は酒なんかないからね、うまいうまいと友達がメチルアルコールを飲んだ。お陰で全員が死んで、友達の遺骨を下げて戻ってきたよ」。
 井上さんの隣りに座っていた平田照行さんも、戦争体験者だ。3歳から台湾に転住し、14歳で少年航空兵になるため日本の学校に入学。卒業後は帝都防衛隊に入隊し、戦後は自衛隊に所属したが32歳で退職となり、仕事がなくなった。
 「ブラジルに移住した人が、ちょうど日本で人集めをしていて、それに便乗させてもらった。1961年、最初はトメアスーに入ったんだ。ただあんまり農業うまくいかなくて、弟が居たカスタニャールに移った」。
 ポツポツと静かに語る平田さんに、日本に戻りたいと思ったことがあるか尋ねると、「一度もないよ」と首を振る。昔台湾で暮らし、外国を知った平田さんにとっては、日本は窮屈な場所だった。一度国外へ出てしまったら、島国の狭さでは満足できなくなるのか。話を聞いて、そんな事を考えた。
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カスタニャール日伯文化協会婦人部の皆さん

 今回料理を作ってくれたカスタニャール日伯文化協会婦人部は、比較的若い人が多い印象を受けた。木村エリザベッチ部長(55、二世)は「37~66歳までが所属している。というのも、高齢者の方たちはゲートボールを始めてから婦人部をやめちゃったのよ」と苦笑する。
 今回の料理は、1~2カ月前からメニューを考え始めた。18人程で作った量は200食余り。「日本人会自体が人数減ってきて、婦人部も少なくなった。正直、家の事があまり出来なくなって大変なんだけど」と言いながらテキパキと準備や後片付けをこなしていた。
 婦人部があるから、故郷巡りでこのような地元との交流が実現した。そんな感謝の気持ちを込めて「写真を撮らせてもらえないか」と頼むと、恥ずかしそうにしながらも了承してくれた。
 会館の外に出てカメラを構えると、アマゾン日本人移住90周年のロゴが入ったエプロンを身につけた婦人部全員が、最高の笑顔で応えてくれた。(つづく、有馬亜季子記者)