臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(157)

 その日、サンパウロ州法医学課のジョゼー・リベイロ課長の指名により、アメーリコ・マルコンデースとジュベナル・ハドソン・フェレイラの二人の法医学士が長野すけおの死体を検診した。二人は午後3時に死体解剖を行い、その結果を次のように報告した。「死体は黄色人、ナガノ スケオ、推定36歳、既婚者、職業は洗濯業、日本国籍、出身地や両親不明、サンパウロ市、ブタンタン区に在住」
 法医学士は結果報告の初めに「下記に印された人物は今日、留置所で収容されていた牢屋で首吊り自殺をはかった」と記している。死体の描写については
「巾1センチ、最高深さ2、3ミリの黒っぽいすじが顎下から両方の耳たぶまで付いていた。また、ごく最近できたと思われるいくつかの小さなすり傷がそれぞれ左肩と右臀部に残されていた。死体の側に長さ90センチの紺色の布があった」
 この報告書の目的は 4つの問題をあきらかにさせるためだった。
 1番・死亡確認、2番・原因、3番・方法や使用の道具、4番・毒、火、爆発物、窒息、拷問、罠や残酷な方法によるものか。法医学士は1番の死亡確認を肯定し、2番の原因は窒息、3番の方法は首吊り、4番は自殺による窒息と断定した。
 証人の同じような答えを聞き飽きた臣道聯盟の尋問責任者は、まだ呼び出しを受けていないアララクァーラの検挙者への証言を簡単にした。彼らに対する尋問は長野の自殺後、五日目に再開された。はじめに呼び出されたのは保久原正輝だった。「評価調査」にはこう書かれていた。「1946年4月24日、当サンパウロ市のブラジル政治治安警察(DOPS)でカルドーゾ所長および私、公証人(任命者、下記署名者)立会いの下に出席した保久原正輝、黄色人に対し次のような質問がなされた。名前、年齢、戸籍上身分、両親、職業、国籍、出生地、学歴、住所。
 「評価調査」の裏側には「訴訟書」と書かれ、次のように始まっていた。
「訴訟された保久原正輝容疑者は証人立ち合いのもとに、当局の質問を受けた【…】以下のように答えた。」質問は簡素化したため、供述時間が縮まり、それまで経験したことのない骨の折れるロンドン公証人の仕事の量が減った。
 タイプの間違えで、正輝の渡伯した1928年が1918年になっていた。
 正輝はアララクァーラの警察から発行された3459番の外国人身分証明書を提出した。ブラジルに着いて以来、一度も帰国したことがない。妻は日本人で7人のブラジル国籍の子どもがいる。不動産はない。アララクァーラのマッシャードス区で農園を借地していると告げた。臣道聯盟の会員で月に2クルゼイロの会費を払っている。本人が署名した「訴訟書」には指導者は湯田幾江と高林明雄の名が公証人のタイプのまちがえで、ユダ・イクダとアケオタ・タカバイアッサとなっていたが、ロンドン公証人は湯田幾江と高林明雄だとすぐわかった。
 署長の「だれが戦争にかったか?」という質問に対し、正輝は「日本は最後の戦争にアメリカに勝った。小さいときから学校では日本は戦争に負けたことはないと習った」と答えた。「溝部幾多も野村忠三郎も、また、署長が名を出した臣道聯盟の理事たちも知らない。戦争に勝ったと信じないため暗殺の対象となっている日本人のリストの存在も知らない」と答え、それ以上なにも言わなかった。