臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(158)

 1946年4月23日のその日、つづけて津波元一、三保來槌、藤本坂末が尋問を受けた。彼らの供述は正輝とおなじようなものだった。臣道聯盟の会員で毎月献金していた。(津波だけが多く5クルゼイロ払っていた)日本の勝利を信じ、暗殺された人を知らず、連盟の指導者とも面識はないと答えた。
 たしかにカルドーゾ所長は職務に厳しい人間ではあったが、2週間前の湯田幾江と高林明雄の尋問のさい、リスボン・ホテルの経営者有田マリオ所有のラジオについて、いろいろ聞いたが、今回のアララクァーラの検挙者の尋問のとき、そのことに触れなかった。毎日、しかも、次から次へと何人もの尋問したために、質問し忘れたのだろう。
 他の例と同じように、尋問のすぐあと、彼等はアララクァーラの刑務所に返された。DOPS長官の命をうけ、第5地域警察のヴェナンシオ・アイレス副局長は彼らの国外追放申請の提起と当地の警察が査問を開始するよう連絡した。1946年4月23日付けのアララクァーラの警察に当てたヴェナンシオ副局長の公文書にはこう書かれていた。
 「当公文書持参の取調官付き添いのもとに、当地在住の日本人、三保來槌、藤本坂末、津波元一、保久原正輝を引き渡す。
 警察長官は刑法171および、1938年5月18日発布の法令3、項目16、26に従い起訴するよう指示する。上記の者たちは、保安のため、通告を受けたおり、かならず警察に出頭する義務がある。
 当公文書には起訴するための「訴訟書」および、「評価調書」の認証謄本を付き添える」
 一般人、ましてや日本移民には解釈不可能な処置により、サンパウロで2週間から4週間留置された正輝を含めたアララクァーラの臣道聯盟の会員たちは釈放された。湯田幾江と高林明雄はその2日後だったが、DOPSは彼らを再び検挙した。(湯田はまず、6月5日、そして8月28日に、また、高林は8月28日に再検挙された)三保來槌、藤本坂末と清水信三の3人は8月5日に再び検挙された。モトゥカの臣道聯盟の会員は清水の他に山田そういちと坂本いくおが再検挙された。
 アララクァーラの日本人にとって、釈放は終戦のために多くの同胞の間に起きた摩擦がなくなったという大きな意味があった。彼らはまだ敗戦を受け入れなかったかもしれないが、留置生活がそれを変えた。彼らの仲間の間にはもう臣道聯盟は存在しなかった。
 慎重をきして、正輝の仲間は集会をやめていた。ところが、他のサンパウロ地区の一部の会員が正輝の仲間たちのような考えをもたなかった。かれらはさらに過激な行動を始めたのだ。
 正輝の仲間たちが留置所に入れられている間、臣道聯盟の会員が武器を使って日本の敗戦を信じる「認識組」、つまり「負け組」を襲っていた。4月11日、サンパウロで藤平正義、17日マリリアで渋谷かねぞう、林ひさみつ、三浦いさむが襲撃された。4月30日と5月2日の間に、バストスの同胞に本国の正しい状況を知らせる会を招集したさい、小包みを受け取り、開封したとき爆発した。池田まさお、本田真砂土、草原よしまつ、大場七郎、林ジョン、山中ごんきち、阿部一郎たちが、また、臣道聯盟支部のあるカンポス・ド・ジョルドンでも千原ししとが負傷した。
 それからしばらくの間、日系社会の危機は治まったようにみえたが、6月2日、サンパウロで暗殺事件が発生した。