県連故郷巡りアマゾン=90周年に沸く「緑の天国」=(12)=追い続けた“第二の日本”の夢

高橋是清元大蔵大臣が日本高等拓植學校を訪問し、芋掘りを行った(上塚芳郎(よしお)さん提供写真)

 戦前に第2回高拓生の尾山萬馬の父・良太がジュート(黄麻)の優良種の栽培を成功させ、アマゾン流域の産業創出に貢献した。戦後、同地では労働力となる日本人移民が望まれていた。そこで再び登場するのが、上塚司だ。
 「これは私が提供した写真です」。上塚芳郎(よしお)さんは、アマゾン日本人移住90周年記念祭パラー実行委員会が発刊した「アマゾン日本人移住90年の歩み」をめくり、1枚の写真を指差す。そこには、当時のゼツリオ・ヴァルガス大統領と交渉する上塚司が写っている。
 日本は敗戦後、住居の不足、失業、食糧難等の深刻な問題を抱えており、政府は移民政策の再開を急いだ。上塚司はアマゾニア産業の辻小太郎らと共にヴァルガス大統領に直訴し、パリンチンス地方への移民導入の許可を得た。こうして53年3月、戦後第1回移民17家族54人が同地へ入植した。
 「祖父は時折ブラジルへ来ていました。戦前、最後にブラジルへ来たのは39年。100万ヘクタールの土地のコンセッション(無償譲与)を受けようとして、リオで演説も行ったそうです。結局無効になったそうですが」。
 移住事業のために、国会議員を半年休んでブラジルへ行った他、懇意にしていた元大蔵大臣の高橋是清に口利きをしてもらい、財閥の資金援助を得た。夢を追い求め続けた上塚司の真意を芳郎さんに聞くと、「〃第二の日本〃を作りたかったんでしょう」と答える。
 満鉄は国策会社として、日本が満州に対して植民地経営を行うために重要な役割を果たした。そこで働いた上塚司は、日本人を入植させるために中国人を追い出し、戦いによって住む場所を奪うやり方が誤りだと考えた。

上塚司と孫の芳郎(上塚芳郎さん提供写真)

 ならば、元々先住民が少ない場所で移住事業を行いたい――それがアマゾン開拓の夢へとつながった。しかし第2次世界大戦が勃発し、その夢は潰えた。「思っていた事ができず、挫折した気持ちがあったようです」と、芳郎さんは静かに語る。
 「70歳の頃の1960年代に、上塚司は最後にブラジルへ行ったんです。高拓生で成功された方々が残っていて、ベレンやマナウス、サンパウロへも会いにいったようですよ」。
 上塚司と高拓生の交流は続き、東京の自宅へは晩年も手紙が届いていた。「第1回生だった秋山桃水さんは、戦後サンパウロに住み、和文タイプライターで書いた高拓生会報を毎月1回出して東京まで送ってくれてたんですよ」と言うように、上塚司と高拓生との絆は結ばれ続けた。(つづく、有馬亜季子記者)