県連故郷巡りアマゾン=90周年に沸く「緑の天国」=(14)=移民の人生は「小説より奇なり」

次女・秋実さん、三女・イルダ礼さん、四女・ミネヨさん

 その日、細田宏志さんにとってどうしても外せない用事があった。祖国から岩手県知事一行がパラグアイに訪れており、県から融資を受けていた細田さんは、歓迎会のために妻と幼い息子2人を置いて出かけた。
 歓迎会が終わり、約8キロの暗い帰り道を歩いていた細田さんは、理由のない妙な胸騒ぎがした。「早く家に帰らなければ」――はやる気持ちを抑えきれず、足早に家に帰った細田さんを待っていたのは、無残にも殺された妻の姿だった。
 「当時、細田家は融資を受けていた。それで家にお金があるという噂が流れて、ご主人がいない時に強盗に入られたんです。2人の息子は、家の外で隠れていて助かりました」。
 打ちひしがれて永久帰国を思い立った細田さんを助けようと、栄田夫妻は細田家の長男で当時3歳の茂を育てようと決心する。弟で1歳の賢治は、アスンシオン・アドベンチスタ病院で働く日系アメリカ人二世の野崎ジョセフ信雄医師が引き取った。その後、細田さんは日本へ帰り、野崎医師は賢治を連れて米国に移った。
 引き取った茂さんは、栄田夫婦の下ですくすくと育った。野崎医師のように医者になることを勧めると、「アルゼンチンのラプラタ大学を卒業して医者になったのよ」。茂さんは大学卒業後、パラグアイのアスンシオンに戻り、今も同地で働いている。
 幼い頃に離れ離れとなった兄弟は、その後、茂さんの結婚式で再会した。なんと、賢治さんも米国で医者になったのだという。その感動の再会は、『乳飲み子で別れて再会』という題で、当時のパラグアイの邦字新聞に大きく取り上げられた。
 さらに、茂さんはJICA研修で訪日した際に、実の父親と再会している。「その時に、茂が言っていたの。きっと父親の下にいたら、医者にならず全く違う人生だっただろうって。人生って分からないものね」。
 まさに『事実は小説よりも奇なり』とでも言うべき出来事だ。江藤さんが「私の同室者が凄い」と言っていたのも頷ける。だが、そもそも栄田夫妻は、どうしてサンパウロを離れる必要があったのだろうか。
 5人姉妹の次女として生まれた秋実さんは、アドベンチスタ教会で出会った、栄田祐司さんと結婚した。祐司さんは、1965年に同協会の宣教師となるべく単身で渡伯した。
 祐司さんは、移民船が北米ロサンゼルス港に寄港した時に出会った、野崎金一牧師と意気投合。その後、金一牧師はパラグアイで働く息子の野崎医師が日本人の宣教師を探していた際に、ブラジルへ移住した祐司さんを薦めた。
 早速、野崎医師は祐司さんにパラグアイ招聘を打診した。一度は断られたが、野崎医師は4度も通ってきたという。その熱意から、とうとう祐司さんは義父の小野田正次さん(秋実さんの父親)と2人でパラグアイの状況を視察することになった。
 2人が訪れた同国のラ・コルメナ移住地で、小野田さんは田中秀穂医師と運命的に再会する。田中医師は、共にアマゾンへ入植した高拓生の仲間だった。田中医師は同地に日本人が必要な理由を2人に語って聞かせ、小野田さんは移住者の大変な苦労に心を動かされた。
 サンパウロに戻り、小野田さんは祐司さんにパラグアイへ行くよう熱心に説得した。祐司さんは遂に野崎医師の招聘を受け入れ、69年に秋実さんと共にパラグアイへ移住。同国に根を張り、日系社会に生涯を捧げ、2010年に亡くなった。
 秋実さんは夫の仕事を引き継いで、新しくアドベンチスタの大学を設立するべく同地で働いている。ブラジルに戻りたいか秋実さんに尋ねると、「今はもう、私の家はパラグアイ。あの場所で生きていくわ」と凛とした声で答え、微笑んだ。(つづく、有馬亜季子記者)

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 故郷巡りに参加していたパラグアイ在住の栄田秋実さんは、息子の茂さんの実父・細田宏志さんのその後を話してくれた。細田さんは日本に戻って再婚したが、暫くして離婚。3度目の結婚を経て、2013年に施設で亡くなったそう。「パラグアイでは養鶏をしていて、事業を大きくしようと頑張っていた。それなのに帰国しても大変で…」と肩を落とす。祖国に戻っても苦労が続く中、パラグアイに残した茂さんが立派に育った姿を見ることができたのは、何より嬉しかったのでは。