臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(179)

 カルドーゾ・メーロ署長の報告書によると、8月22日、マセード・ソアーレス・サンパウロ臨時行政官に当てられた公文書には「ドゥトラ大統領は8月10日『望ましくない日本人を国外追放した』」という大統領令にサインした。しかし、同じ公文書には臨時行政官がそれを軍事裁判所にまわすようにと記されていた。それは1938年5月18日に発令された法令第431号に「国の組織や保安にかかわる外国人の犯罪についは軍務省が取り扱う」とあるからだ。8月30日、バチスタ・ペレイラ・サンパウロ州事務局長は保安局長に臨時行政官の指示により公文書を法律に基づき、軍事裁判所送るよう申し渡した。
 9月2日、保安局長は「緊急対策」としてヴェナンシ・アイレス第5警察助局長に送り返した。それを受けた同氏は9月3日「更に検討の余地あり」と、報告書を第2軍管区、軍事監査局に送った。
 こうして、警察当局の取調べは終了したことになる。ここから先のことは司法権が検討する。これまでの警察の処理はスムーズに行われた。審問、捜査をまとめた報告書はリオの法務省への提出、その法務省発令による国外追放が行われる。臣道聯盟に関連した容疑者の数からいって、5ヵ月間というおどろくべき短期間で処理されたわけだ。もし、法的処置が同じようにスムーズにいっていたとしたら、法務省による約80人の国外追放は短期間で行われ、約400人の移民は刑に服していたか、無罪とみなされ、釈放されていただろう。
 しかし、訴訟書類を軍事裁判所に送ったことが対策をえんえんと遅らせることになった。各部門のあいだで、判決を下す責任のがれが始まったのだ。そのためにはそれぞれありとあらゆる手段を使ったが、部外者には政治的にも法的にも複雑なうえ、被告人が多数で、作業に手がかかることから、どの部門も手をつけたくないというようすがありありと感じられた。
 判決を下す力がないと悟った軍事裁判所は訴訟書類を一般裁判所に回した。ところが、今度は刑事裁判所と賠審裁判所の間でお互いに複雑で被告人が多すぎるこの問題から手を引き、責任から逃れようとしたため裁判が止まってしまった。その停止状態は3年もつづき、ようやく1949年6月16日に決着がついた。サンパウロ州、第2法廷裁判所は、殺人者は陪審裁判所が判決をくだし、他の者たちにはサンパウロ第1刑事裁判所が刑をいい渡すことになった。
 これまでの段階で、訴訟書は11冊にもなっていた。1冊が200ページにもおよび、なかには裏表両面のページもあった。ただし、最後の3年間はページ数はそれほど増えなかった。というのも、増えた部分は各部門の間を行き来したとき加えられたものだからだ。そして、第2法廷裁判所より裁判をまかされた第1刑事裁判所から取り調べを受ける被告人の証言と、それを証人する者への執行令状が出された。法廷が進むにつれて、証人また法廷から呼び出しを受けた者たちの証言が加えられ、訴訟書はどんどん膨れあがっていった。
 もっとも、すべては被告人に対しての検察局の出方にかかっていた。ようやく1950年4月3日、警察が臣道聯盟の犯罪を調べはじめて4年と1日が経って、サンパウロ第1刑事裁判所のアデマール・フェレイラ・デ・カルバーリョ検事が起訴状を提示した。