臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(187)

 マッシャードス区の正輝の家に集まるのはメーガーじいさん、子どもたちからぜんぷおじさんと呼ばれている平良ぜんぷ、国吉しんかん、サンパウロ大通りにマカロニ工場を持つ照屋、パステイス屋の大工廻(だくざく)と平良、田場けんすけ、以前田場から借りていた保久原のあとの土地を借りた川上、玉城などだった。
 正輝家族が住んでいた家の後に入居したこの玉城の家で、マサユキはその家にあるマンガをこっそり読んでいた。キャプテン アメリカ、フラッシュ ゴードン、ジャングル ジム、キャプテン マーベル、これらのマンガは子どもたちを魅了した。正輝は当時の子どもたちがこぞって読んでいたマンガ本を息子たちが読むことを禁止していた。
 アメリカの英雄意識が日本人的精神に悪影響を及ぼすと考えたいたからだ。マンガを読むことを禁止しているのに、アメリカ人の英雄意識を扱ったハリウッド映画を子どもといっしょに観るという矛盾に本人は気付いていなかった。正輝を訪れる仲間は沖縄出身の者ばかりで、本土出身、つまり内地の人間は一人もいなかった。

 マサユキの学校の成績はよかったが、家から学校までの5、6キロの距離が体力的に負担となり、勉学に影響した。アララクァーラの州立高校への初めの入学試験に失敗した。もしかしたら、そうとうの努力をしたところで、パスすることはなかったかもしれない。11~12歳の子どもにとって、難しすぎたのだ。それで、翌年、アントニア先生の教える受験学校で勉強し、そのかいあって1948年希望校の州立高校に入学することができた。アキミツは次男、いや、その他の息子として、兄のあとにつづこう、あるいは兄を追い越そうと努力した。いつも兄と同じ、あるいはそれ以上の能力があることを示そうとした。もちろん、学校の成績もよかった。ただし、ニーチャンと異なったその他大勢という扱いを受けた。兄弟たちにはアキチョー、そして両親からは単にアキと呼ばれていた。
 ネナは3年生を終ろうとしていた。マッシャードス小学校には3年生までしかなかった。正輝夫婦は前から3年生まで行かせると決めていた。女だからそれでいいと考えていたわけではない。もし、勉学をつづけさせたら、町の学校へいき、授業を受け、帰ってきたら、一日つぶれてしまう。だれが一体家事をするというのか?
 セーキとなるとやっかいな問題が多すぎた。「成績がすこぶる悪い」と書かれた通信簿をマサユキが何回もって帰されたことか。問題は1年生の初めの教科書から始まった。「A pata nada」を「Pata-pa. Nada-na」と書くのだ。文字練習ノートにこんなことを書く子がいるだろうか。そんな状態が1年も続いた。
 マサユキが州立高校に入ってまずおどろいたのは学科により先生が変わることだった。中学時代は一人の担任の先生が全科目を教えたが、高校では各科目に担当の先生がいる。
 フランス語の先生はいかにもその科目にふさわしいファニー先生だった。
 マサユキはこの先生と朝市で顔見知りだった。父親がやっている売店のお客さんだったのだ。(商品の野菜はモトゥカの東京植民地から、果物のミカンは有名なサンタ・エスネスチーナ産、また、野菜は自家で採れるものだった)売店のお客さんだった人を、今度は生徒の立場で見ることに違和感を感じた。野菜を売る人とお客さん、そして、田舎者と都会人、その不釣合いが彼にコンプレックスをいだかせた。