臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(202)

 第12章  都会にて

 もし、サンパウロかその近郊に住んでいたら、正輝と上の二人の息子は「飛び魚」を迎えにコンゴニァス空港まで行き、パカエンブ競技場でブラジルの水泳選手たちとのコンペチションを観ることができただろう。記念すべき行事にいけなかったことが悔やまれたから、都会に移ることを急いだのかもしれない。
 正輝はアララクァーラのグァタパラ植民地やタバチンガのパウケイマード植民地にいた時代、父親のように世話をしてくれた稲嶺盛一と妻ウマニーが、サンパウロ近郊のサントアンドレという市で成功していることを知っていた。
 近郊のサントアンドレは近年、工業化で急速に発展し、働きたいものにはいくらでも仕事があるということだった。彼自身も将来性のある洗濯業を選び、家族がゆうゆう食べていける収入を得ている。マリキーニァとよばれていた娘の一人も美容院を開け、顧客も多い。サンパウロまで電車で行けば25分しかかからない。だから、正輝に田舎から出てくるようにずっと勧めていた。
 アララクァーラを引きはらい、都会に出て成功しているのは稲嶺だけではない。サンカルロスで樽叔父とつき合っていた、同じ新城出身の松吉家族もサントアンドレ市で洗濯業を営み成功している。
 移民家族にとっていちばん向いているのは洗濯屋と朝市の仕事だ。それほど多くの資本を必要としない。農業でこつこつ貯めた金があれば、都会に出てこれらの仕事をはじめるには十分なのだ。おまけに、あまり予備知識も要らない。 家族に娘がいれば、髪のカット、カラー、パーマ、マニキュアをする美容院を開けるといい。稲嶺一家は洗濯業と美容院を営んでいた。
 この二軒の店は町の中心地といわれるエンバイシャドール・ペドロ・デ・トレード広場からあまり遠くないセナドール・フラッケル街の最後の角にあった。もっとも、この名で知っている者はおらず、ペドロ・デ・トレードの胸像があるので「銅像広場」と呼ばれていた。
 なぜ銅像広場なのか、ペドロ・デ・トレードとは何者なのか知っている者などいなかったからそう呼ばれていたのだ。そこから南東にセナドール・フラッケル街、北東にルイス・ピント・フラッケル街、北にコロネル・オリヴェイラ・リーマ街、そして、南西にコロネル・フェルナンド・プレステス街が出ていた。
 松吉一家はみんなからサントアンドレで最も高級街といわれるコロネル・オリヴェイラ・リーマ街に「ネウザ洗濯店」という店をかまえていた。ポルトガル語の看板をあげるのは、洗濯業といえば日本人という印象を顧客に与えたくないからだった。けれども、人々から高級街といわれるオリヴェイラ・リーマ街は営業するには経費がかかりすぎた。そこで松吉じいさんはフェルナンド・プレステス街に移転した。
 200メートルも離れていないところだったが、経費はずっと安いうえに営業を続けるのに都合のいい場所だった。洗濯屋の入り口はフェルナンド・プレステス街に面していて、交通量が多かった。というのもサンベルナルド・ド・カンポス市に通じる道だったからだ。サンベルナルド・ド・カンポス市はまだ小さな町だが、いずれ、ブラジルの工業化の波にのって発展する町になると考えられていた。