産業文明という「人類の緩慢な自殺行為」

生物学者フェルナンド・レイナッキ氏がエスタード紙2月22日付に書いた「機会ある世界」(Mundo de oportunidade)

 ちょっと心を洗われるコラムを読んだので、紹介したい。生物学者フェルナンド・レイナッキ氏がエスタード紙2月22日付に書いた「(Mundo de oportunidade(機会ある世界) 」(https://ciencia.estadao.com.br/noticias/geral,mundo-de-oportunidades,70003206608)だ。
 《生態系の破壊について考えたとき、死や絶滅を思い起こさせ、地球に対する敬意の不足が招いたものと思われている。だが人類のこの活動には、別の側面がある。他生物への新しい生存機会の提供だ》との一文で始まる。
 地球上のあらゆる環境には、それに適した生き物(バクテリアやカビを含む)が適者生存している。だから何かの種が絶滅しても、あっという間にその「生態的な地位」(居場所)を他の生物が奪うシステムが出来上がっている。
 ある種が強くなって生態系を破壊する行為を行って、別の種を絶滅に追い込んだとする。そこに生態的な地位に空きができても、時間と共に、別の生物がそこに進出して適応し、繁栄するだけ。生態系において、けっして「空き」の状態は長続きしない。別の生物がそこを新しく占領する。
 だから、人間が他の生物を絶滅に追い込んでいる行為には「別の生物に生存の機会を与える」という意味もあると論じ、「30億年という時間はそのように過ぎている」とレイナッキ氏は言う。
 「人類が町を作り、木を伐ると、排水溝などにノミやネズミが増殖する。ゴキブリも喜ぶ。農業が生まれたことで、植生を破壊しただけでなく、トウモロコシが地上を覆い尽くす機会を与えた。我々の助けがなければ、犬、猫、鶏、牛はこのように増えなかった。籠の中の鳥は虫やウイルスにとって最高の環境だ」と科学者らしい視点で分析する。
 少し皮肉な言い方で、「人類の体内では、寄生虫やウイルスがまたとない生存環境を与えられ、お祝いしている。その一つが、新型コロナウイルスだ。伐採されて焼かれた森林は虫や雑草に適した環境になる」とも。

人類のゆっくりした自殺行為

マット・グロッソ・ド・スル州の国道262号沿いの森林火災(2019年11月4日、foto=Chico Ribeiro)

 生物学者らしく、人類を一つの種として突き放した見方をしている。「だから、地球の行方を私は心配していない。人間は木を伐って良く、焼いても良い、汚染しても良い。ただし実際のところ、もしこのペースで、私たちが生きるのに必要な飲み水、キレイな空気、豊饒な大地、気温、適度な湿気などを破壊・汚染し続ければ、自分が生きていくのに必要な環境を壊す。もしそれらが無くなれば、人類は絶滅し、代わりに別の種が人類が占めていた生態的な地位を占めるようになる。時間はかかるだろうが、恐竜を絶滅させた隕石落下の時(6500万年前)と同様に、似ているが新しい生態系に生まれ変わる」
 「人間中心主義」に陥りがちな現代産業文明においては、すぐに「地球を助けよう」「地球の環境を守れ」と叫ぶ。
 だが、本当に助けるべきは「人間が生きていくのに必要な環境」でしかない。人間が生まれるはるか以前から生態系は存在しており、生態系が生まれる以前から地球は存在している。地球という星レベルで見れば、「人間抜きの生態系」の時間の方が圧倒的に長かった。生態系も地球も、人間がいなくなっても何も問題ない。
 「この視点からすれば、人間がしていることは自然を終わらせているのではなく、単に自殺しているだけだ。それが起きたとしても、数百万年かかって地球は生態系を回復させる。チーターにも鯨にも絶滅してほしくない。だが、我々が長期的な視野から見て心配すべきことは、地上の生き物のことではなく、我々の緩慢な自殺行為だ」と書いている。
 まったくその通りだと感心した。もちろん環境破壊が良いと言っているわけではない。ただ「地球を救けよう」の様な、人間が自然に対して上から構える言い方、自然に対する敬意が欠けた心構えが気にかかる。
 単純に「人間が快適に生きられる環境を保全したい」と、自然に対してもっと謙虚な言い方をしてほしいとつくづく思う。自然を下に見ている限りは、産業文明という「人類の緩慢な自殺行為」は終わらない気がする。

人類がいなくなれば数万年後には生態系は元通り

 人間がいなくても地球や自然が続くことは、科学の世界では常識だ。
 サンエンティフィック・アメリカン誌2007年7月号(www.scientificamerican.com/article/an-earth-without-people/)には「An Earth Without People」(人がいない地球)というSFのような論文が掲載されている。突然、人間がいなくなったら地球に何が起きるかを科学的に推測したものだ。
 あらすじを要約すれば、(1)1週間後=水冷システム停止により原子力発電所がメルトダウンする。
(2)4年後=寒冷地では、冷凍・解凍の繰り返しで弱った建物が倒壊し始める。
(3)5千年後=核弾頭のケーシングが腐食、プルトニウム239が流出。
(4)1万5千年後=ニューヨークのマンハッタンが氷河に覆われる。
(5)3万5千年後=自動車の排気ガスから蓄積した地中の鉛の痕跡が消える。
(5)10万年後=空気中の二酸化炭素が、人類工業化以前のレベルに戻る。
(6)1千万年後=青銅像だけが人類のいた痕跡として残る――というもの。
 人類が現在やっている産業活動の汚染が10万年後にはキレイさっぱり洗浄されるらしい。ただし、プルトニウムなどの放射能はまだまだ残る。
 とにかく、人類がいなくなれば数万年もたてば、ほぼ人類以前の生態系に戻る。人間が「自然」や「地球」を心配する必要は何もない。

「地球の適正人口」という議論はオカシイか?

 そんな発想をしながら記事を読んだり、書いたりしていると、よく疑問に思うことがある。
 例えば経済成長率が落ちれば、どの国においても異口同音に政権への非難がごうごうと起きる。日本のように人口減少社会になると「そのうち国がなくなってしまうのでは」という不安な声が国民からあがる。
 それに対して「どうして経済は成長し続けなければならないのか?」「なぜ人口は増え続ける必要があるのか?」という根本的な疑問がいつも頭をよぎる。
 というのも「地球には適正人口があるのでは」という気持ちがあるからだ。現在の人類のあり方では、生きているだけで資源を消費し、汚染物質を出して環境に負荷をかけている。今の人類の営みは、宿主を食いつぶす病原体に近い存在の在り方に思える。
 生態系が吸収できる範囲で負荷をかけている分には、現状が維持される。だが明らかに現在の人類の在り方は、生態系に負担をかけ過ぎた状態になっているように見える。だからどんどん生態系が破壊され、気候変化に繋がるような要因が減らない。
 「持続的成長」という言葉を20年ぐらい前から良く聞く。でも今のように常により高い経済成長率を求め、人口増加を前提とした持続的成長モデルはキレイごとのように感じる。本当の持続的成長とは『適正な成長』、『適正なエネルギー消費量』などに深く関係する『適正な文明のレベル』と『適正な人口』を保つことではないか。
 本来は、国連のような国を超越した組織が、現状の生態系が許容範囲とする「地球の適正人口」を決め、それを守らせるための取り組みをするべきだ。
 だが人類にとって「自ら人口を減らす」ことはむずかしい。「自殺を禁止」するキリスト教を主軸とした西洋社会が世界の趨勢をにぎる現在において、「人口を減らす」方向の議論はありえない気がする。

エネルギーをたくさん消費する先進国の責任

 そして、環境汚染の主な原因になっているのは誰か。少ししかエネルギーを享受していない途上国の人たちなのか。「適正な成長」の中には、そのような「エネルギー消費の平均化」「適正で公平な生活レベル」という問題も含まれる。
 先進国が世界のエネルギーの大半を消費し、後進国がその原料を提供している構造もその問題に含まれる。農産物もしかり。アマゾンの森林伐採の責任を南米ばかりに押し付けるきらいがあるが、そこを農地にした農産物を買う先進国があるから伐採される。
 声の大きい先進国の国民に対して「貴方達の生活レベルを、適正水準まで落とすことが必要です」と、どうやって誰が説得するかという問題だ。
 NHKスペシャルのシリーズ『欲望の資本主義』やそこに出てくる『金融資本主義』という考え方が経済の主流を占める限りは、適正な成長という議論は永遠に無視され、格差社会もどんどん拡大する気がする。
 現在の資本主義が直面する限界を真摯にとらえ、世界を巻き込んで「適正な成長」「適正な人口」を実行する強制力を持つ組織が生まれないと、「人類の緩慢な自殺」は終わらないだろう。
 まずは、今まで前提となっていた「豊かさ」や「成長」を脇において、「人類生き残り」を最優先課題として議論する国際的な場ができる必要がある。それがダメなら「人類の緩慢な自殺行為」は止まらない。(深)