新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(2)

下元一家、左端が健吉(モイーニョ・ヴェーリョ時代)

 半世紀以上も昔のことであるが、筆者はある人物の壮年期の顔写真を初めて見た時、小さな衝撃を受けた(凄い面構えだ!)と。巌の様な骨相であった。眉は長く太く、口も大きく、鼻と頬骨とあごが突き出し、写真でありながら強烈な“気”を発していた。これが下元健吉であった。 彼と同時代、日系社会の指導者の一人であった山本喜誉司は、観相の心得があったらしく、全盛期の下元を後年こう描写している。
 「鼻と頬骨とあごは意思の強さを示していた。口は能弁と巧智を表示しており、横顔の深さは才能の多角性を…」
 健吉は1897年、明治30年、高知県高岡郡の半山村(後の葉山村、現津野町)に生まれた。小学校の成績は優秀であり、担任の教師は彼の父親に中学校へ進ませる様、勧めたという。
 下元家は中以上の農家で、それ位のゆとりはあった。が、父親はそうはしなかった。中学は三里以上離れた高知市にしかなく、下宿する必要があった。その場合、不良化することを警戒したという。そういう前例があったのであろう。
 明治は、福澤諭吉の『学問のすゝめ』が、社会的に大きな影響を与えた時代である。成績優秀な学童たちは、上級学校への進学を強く望んだ。進学こそ自分を社会的に向上させる道であった。学校でも、唱歌にもある様に「身を立て名をあげ、やよ励めよ…」と教えており、学童たちは、それを素直に受け入れていた(この点は現代の日本とは違う)。
 健吉は、その骨相からすると、向上心は強列であったろう。が、それを阻まれたのである。彼は後年、事業面では戦闘的であり、激怒しやすかったが、仕事を離れると温和そのもの。
 特に家庭内ではそうで、怒った顔を見せたことは一度もなかった。家庭内での温和さは子供の頃からであった。父親の決定におとなしく従った。無論、内心では悔しくもあり恨みもしたであろう。ともかく不運であった。

進学の道を断たれて…

 健吉は止むを得ず、地元の高等小学校に入った。そこを卒業、改めて上を目指す道も未だ残されていた。
 ところが、父親が新しい仕事に手を出してしくじり、下元家は大きな借財を背負ってしまった。進学の道は断たれた。またも不運に見舞われたのである。
 そうした時、兄の亮太郎がブラジル移住を思いついた。ひと財産稼いで帰り、家運を挽回しようとしたのだ。
 周知の様に、高知県は水野龍の出身地である。水野はこの数年前の1908年以降、多数の同胞を移民としてブラジルに送り込んでいた。その移民の稼ぎは芳しくなかったのだが「ブラジルには金の成る木がある」という誇大な宣伝もしくは噂が流れており、それを信じる素朴な人々も多かった。
 「金の成る木」とはカフェーのことである。移民の就労先はカフェザール(コーヒー農園)であり、そこで働けばひと財産稼げるという意味であった。因みに移民といっても、誰もが帰郷を予定しており、実際は「出稼ぎ」だった。
 当時、亮太郎は23歳であり既に妻子もあった。郷里に残すことになる両親と祖父の世話は、健吉に託すつもりだった。他に人は居なかった。が、ここで健吉が爆発した。
 「自分も行く!」と頑強に主張したのだ。
 進学の道を断たれたことに対する反動であったろう。周囲は思い直すよう説得した。が、健吉は「兄弟、力を合わせて働けば借金くらいは返せる。10年計画で送金する」と押し切った。
 1914年、大正3年の2月、亮太郎とその妻子、健吉の四人は帝国丸で神戸を出港した。
 健吉16歳であった。
 同年5月サントスに上陸、ソロカバナ線ピラジュー駅のボア・ビスタというファゼンダに送られた。詳細については資料を欠くが、時期と場所から推定すると、裕福なブラジル人が所有するカフェザールであったろう。
 ここで一家は、コロノ(契約制の労務者家族)として働き始めた。しかし思惑は大きく外れた。「金の成る木」どころか、米の飯を食べたら借金ができる――という惨憺たる稼ぎにしかならなかったのだ。
 一家は、さつま芋やマンジョーカを齧りつつ、契約期間の1年間、重労働に耐えた。「あそこで生まれた次男は、今でも身体が弱い。酷い食べ物だったからのう」と亮太郎は後々まで嘆いた。
 健吉は、全身から血が引く思いであったろう。次いで怒りが燃え上がった筈である。それが、その後の生き方を決めた――と筆者は観る。(つづく)