新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(4)

初期の頃のじゃがいも輸送風景(『コチア産業組合30年の歩み』(1959年、アンドウ・ゼンパチ著、コチア産業組合刊、37ページ)

 1922年、下元家は漸く土地を買うことができた。じゃがいもの市況が良かったのだ。日本を出てから8年が過ぎていた。
 加えて、健吉が殊勲を挙げた。
 当時、モイーニョ・ヴェーリョのバタテイロ(ジャガイモ生産農家)はベト病の蔓延に苦しんでいた。その予防法に疎かったのである。ところが健吉が――たまたま他家で読んだ日本の農業雑誌で――ボルドー液という予防薬があることを知った。早速、原料の硫酸銅と石灰を買いにサンパウロへ出かけた。
 が、途中、実は自分がそのポルトガル語名もボルドー液をどうやって作るかも知らないことに気づいた。市内に日本から来た高岡専太郎という医師が居ることを思い出し、訪ねて行って教えを乞うた。
 医師の使う薬と農薬は違う。が、高岡は親切に色々調べ、試験管を使って作って見せてくれた。
 健吉は、硫酸銅と石灰のポルトガル語を紙に書いて貰い、苦労してそれを売る店を探し、買って帰り、ボルドー液をつくった。畑で使用すると好成績であった。近隣の畑にも持ち込み、撒布、薬効を証明した。ベト病問題は解決に向かった――と、そういう殊勲である。

やっと、上げ潮に転ず

 以後、自信を得た健吉は、青年会のリーダーの一人として、活発に行動する様になった。
 運がやっと、上げ潮に転じたのである。
 この頃、健吉は次の様な逸話を残している。
 「事情があって友人から買い取った獰猛な暴れ馬を調教するため、その脚と胴体を厩の柱にがんじがらめに縛り付け、泡を吹くまで懲らしめて従順にさせた。以後、競馬でも畑仕事でも、彼が手綱を取ると、敵う馬はなかった」
 「川に釣りに行って、一匹ずつ釣っていては夕食のおかずに間に合わないと、ダイナマイトを投げ込んだ。こうすると近くに居る魚がすべて浮く」
 「仲間とじゃがいもをサンパウロの取引市場(いちば)へ運ぶ時、待ち合わせの場所へ、馬上、
瑠璃を語りながら、暁闇の中から現れた」…等々。
 以前の口数少なく、目立たない健吉から一変したのである。
 上げ潮は続いた。1925、26、27年とじゃがいも市況が高値をつけたのだ。
 その25年の暮れ、健吉は高知へ帰郷した。11年ぶりであった。目的は嫁取りだった。すでに28歳になっており、当時としては晩婚だった。
 健吉は、その嫁を伴ってビーラ・コチアに戻った。日本で、やり直すことは考えていなかった。考えるには歳をとり過ぎていた。それと「日本で身を立て名を上げる代わりに、ブラジルで何事かを成せるかもしれない」という勘が働いていた。
 ビーラ・コチアの邦人は、この頃はモイーニョ・ヴェーリョの外側にも広まり、100家族近くに増えていた。主作物のじゃがいもは、元々は小粒で色もくすんでいたが、肥料の使用、品種改良、栽培・耕作技術の工夫で、大粒できれいな肌の芋が生産されるようになっていた。
 これが消費者の間で人気上昇中であった。消費者とはサンパウロ市民のことだが、人口が膨張中だった。しかもそのサンパウロへ通じる州道が改修され、カミニョンが走り始めていた。
 バタテイロたちの農場から州道へ出る道を整備すれば、輸送量を増やせる。さらに市場の傍に保管用の倉庫をつくれば、有利な販売が見込めた。一つの小産業に発展するかもしれなかった。
 健吉は(バタタを伸ばして行けば…)と血を騒がしていた。その血が前記の勘を生んだ。
 彼は帰郷中、県の役所で産業組合の指導をしている小学校時代の友人に会い、その知識を吸収していた。実はビーラ・コチアのバタテイロは、何度も組合設立を企てていたのである。まだ実現はしていなかったが…。(つづく)