臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(236)

 日本人から「桜組」と呼ばれたこのグループはすぐ見分けられた。カーキ色の制服を着、同じ色の軍帽を被って、グループをくんで歩くからだ。彼らの目的は「日本に引き上げる」ことだから、敵国から日本に帰るという意味で「引き上げ論者」ともよばれた。
 規則正しい彼らは、短期間のうちに町に住む同胞たちの協賛を得るようになった。まずはじめに参加したのは、臣道聯盟のすじがね入りの会員だった。次に日本への帰国を希望する者があとにつづいた。正輝の名はこのグループのリストの最初の方に挙げられていた。はじめ、彼を説得しようと朝市にやってきたが、断られたので、家まで押しかけてきた。
 つい数年前まで強烈な国粋主義だった正輝だが、ブラジルに残って、子どもたちをブラジル人として教育しようとすでに決意していた。グループの者たちは彼の固い決意をひるがえすことはできなかった。
 ある日、執拗な彼らの勧誘に腹をたて、2度と勧誘にこないよう家から追い出した。以前だったら、同胞を家から追い出すようなことはしなかっただろう。そんなことをすれば、負け組の反愛国者だとみなされるからだ。今回も強い国粋主義的行動にでた。ただし日本への愛国心ではなく、ブラジル社会に溶け込むためのブラジルへの愛国心からだった。
 桜組は有力な協力者をひとり失ったことになるが、それでも運動をやめなかった。市役所にあれこれと許可を申請しつづけた。それが、DOPSの知るところとなった。7年前、臣道聯盟の査問を手がけた機関だ。組織の指導者17人が検挙されたが、活動を停止する気配さえなかった。
 1954年2月3日、桜組挺身隊は女、子どもを含め100以上の会員を動員し、プラッサ・ダ・セー広場でデモ行進を行った。「ブラジルの40万人の即刻帰国」と書いた旗をかかげ、広場から日本総領事館まで行進し、そこで声明書を渡した。声明書にはこう書かれていた。
 「5年の間、我々はブラジル、日本政府、国連にブラジル在住の40万人だけでなく海外に住む70万人の帰国を申請してきた。海外在住者の国費で直ちに帰国できるよう許可を願う」
 かんばしい返答が得られず、領事館に居座ったが、結局、強制退去となった。サントアンドレの桜組の活動はしだいに困難となり、関心を呼ぶためにハンストまでやった。