新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(7)

いきなり、理事長に!

組合の診療所

 1927年末、コチア産組が創立された時、当然、役員も選出された。その時、初代理事長になったのが、なんと下元健吉であった。
 29歳であり、組合員の中では若手だった。しかも未だ独立農でもなかった。下元家の当主は兄の亮太郎だった。それが、80余名の他の組合員をゴボウ抜きして、理事長になってしまったのである。大変な栄達であった。ために後年、彼の敬愛者の間で一つの伝説が生まれた。
 「下元健吉は、高知へ一時帰郷した折に仕入れた知識を生かし‥‥村の青年を糾合、産組結成運動を始め‥‥村中を説いて回り、有志10名から各10コントの出資金を得ることに成功‥‥理事長に選出された」という内容であった。
 この伝説が生き続け、さらに尾ひれはひれがつき、彼の名を神秘化することになる。
 しかし現実というものは、そういう安っぽい立志伝の様にスイスイと行くものではない。
 実は組合創立の最大の功労者、理事長候補は下元健吉ではなく、既述の村上誠基(せいき)であった。村上は頭が切れ、知識が豊富だった。総領事館の産組設立支援金を受ける交渉で、館員と対等に渡り合えたのは、彼以外になかった。
 創立委員の筆頭にも、その名が記されていた。組合員番号も1番であった。35歳だった。
 理事長は衆目の一致するところ、この村上誠基であった。ところが、意外なことが起きた。本人が固辞したのである。以下は、当時をよく知る(コチア産組の)元監事が、後に邦字新聞に書いた記事の要旨である。
 「村上は、組合役員のような儲けにならぬ仕事には、手を出さない主義だった。が、組合は必要だと判っていたから(創立時も以後も)人を煽てて役員の仕事を押し付けていた。村上だけでなく、役員のなり手は、労働力に余裕のある組合員は別として、その頃は居なかった。下元は、性格的に権勢欲が非常に強く役員の仕事が好きだったから、調法なのでやらせておいたのである
 つまり、理事長人事には「ほかに引受け手が居なかった」という裏事情があったのである。この初代役員選出の折、理事長以外の理事二人も、20代の若手が就任している処を観ると、元監事の書いていることは事実であろう。二人はいずれも下元同様、青年会の主なメンバーであった。
 元監事の記事中の「下元は、性格的に権勢欲が非常に強く」という部分は、きつい表現である。無論、当人は使命感で理事長職を引き受けたのであろう。が、そう評される短所があったのかもしれない。なお役員は、当初は無報酬であった。
 それはともかく、理事長職の引受け手が居なかったのは、見様によっては、下元にとっては幸運であったろう。日本で身を立て名を上げる代わりに、ブラジルで何事かを成す――という志に挑むための階段に、足をかけることが出来たからである。組合経営に成功すれば、その階段を、さらに上へ登ることができる。
 1922年以降、下元の運勢の上げ潮は5年続いていた。しかし上げ潮というものは、そう長く続くものではない。(つづく)