新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(8)

講演する下元(時期不明)

 奇妙ないきさつで理事長になった下元健吉であったが、その運勢は下げ潮に転じた。
 まず、組合経営の采配が乱れ続けた。経営というものに関しては、全く未経験だったのだから、最初から巧く行く筈はないのだが、時期も悪かった。
 1929年10月、ニューヨーク発の世界恐慌が発生、ブラジルにも波及、バタタ(ジャガイモ)の市況まで暴落させたのである。1俵50ミルの高値をつけていた一級品が10ミル台へ‥‥というほどの酷さであった。
 理事長の下元は組合員に出荷停止を指示、市況回復を図った。が、指示は守られなかった。その頃、組合員の多くは、数年続いた好況に気を良くして、プレスタソン(分割払い)でカミニョン(トラック)や営農資材を業者から買い、植付けを増やしていた。
 暴落で、その支払いができず、資産を差し押さえられる者が相次いだ。そのために抜け売りが発生した。抜け売りとは、生産物を組合に出荷せず、こっそり仲買人に売ることをいう。
 下元は、それを食い止めるべく必死になった。が、止まらなかった。違反者を村八分にまでしたが、効果は小さかった。
 コチア産組は危機に陥った。しかも、その最中、下元は夜間、乗用車で走行中、事故を起こし人を一人死なせてしまった。疲れで前方不注意になっていたのだ。1929年末のことである。
 警察に自首、しばらく留置場に居った。流石にガックリしていたという。無論、理事長職は辞任した。

采配、乱れ続ける

 翌1930年も危機は続いた。市況は依然低迷していた上、リオの市場で販売を担当していた職員による巨額の拐帯(編注=人から預かった金や品物を持ち逃げすること)事件が発生したのである。
 組合幹部は必死に捜索、情報提供者への懸賞金付き新聞広告まで出した。が、徒労に終わった。拐帯したのは、下元が理事長時代にその職を任せた男であった。
 1931年、またも奇妙なことが起きた。下元が専務理事に選出されたのである。理事長は別に居たが、経営の采配は彼に任された。拐帯事件の折の理事長としての責任をとれ――という意味もあったろう。
 それと、この難局下、采配を預かる酔狂な人間など、ほかには居なかったのだ。ちなみに経営の実務は、これ以降、専務が切り回すようになる。
 専務を引き受けた下元は足掻きに足掻いた。が、結局、切抜け策はなかった。一切を投げる腹を決め帰宅の途中、彼の支持者の松岡という老人の家へ寄り、こう言った。
 「もうイカン、やめる…」
 静かに聞き終わった老人、その考えが非であることを懇々と諭し、励ました。
 「組合がなければ、百姓は立ち行かん。自分が資金集めの協力をするから、もう一盞(一度)やれ」
 これには、下元は泣き伏したという。
 この老人の奔走、さらには総領事館の口添えもあり、結局、有志の13組合員が特別出資金を醵出、組合は窮地を脱した。ただし、これも前出の元監事によると、村上誠基が陰で動いて13人をまとめたという。(つづく)